コミュニケーション可能場面における、話者の発話自体への応接という要素:飯野勝己著『言語行為と発話解釈』への補足修正の提案

この文章は飯野勝己『言語行為と発話解釈 コミュニケーションの哲学に向けて』(2007,勁草書房)(amazon)での議論に、一定の修正と補足を提案することを企図している。

この文章は表題に、「コミュニケーション可能場面」という言い方を用いてみた。言語行為について考察する場合に、その状況が「コミュニケーション可能であるか否か」という事項が大きな要素だと考えるからだ。また、「コミュニケーション可能場面」であっても実際にはコミュニケーションが展開しないというケースも想定することがしやすくなるからでもある。

『言語行為と発話解釈』の問題点:コミュニケーション的意図の無効化

飯野勝己『言語行為と発話解釈 コミュニケーションの哲学に向けて』(2007,勁草書房)に見て取ることが可能な「問題点」のもっとも大きなものは、次の点である。

会社の課長が部下に対して「業務命令」を下す場面であろう(p125-126あたり)。課長は「ちょっと、コピーとって」と部下に言う。それに対して部下がどのように応じるか、と問題提起される。部下の対応は三種類想定できる。少し原作に修正を加えるとこうだ。一つは「はい」と発話してコピーをとり、「はい」と課長に渡す。二つは、無言でコピーをとって、無言で課長に渡す。三つは「すみません、今手が離せないんで」と発話して、課長の命令を断る。と、こうだ。ここで、課長の「意図」は二種類に分割できる。一つは「コピーを部下にとらせる」という意図である。これは「執行的意図」と飯野は呼ぶ。もう一つは「自分の発話に対する応接を部下に求める」という意図である。これは「コミュニケーション的意図」と飯野は呼ぶ。三つめの部下の応対は「コピーを部下にとらせる」という執行的意図が満たされなかった(がコミュニケーション的意図は満たされた)ケースと位置づけられる。他方、二つめの部下の対応は「自分の発話に対する応接を部下に求める」というコミュニケーション的意図が満たされなかった(が執行的意図は満たされた)ケースと位置づけられる。そして、その両方が満たされたのが一つめのケースである、と位置づけられる。そして「コミュニケーション的意図」という側面は看過されやすいが、しかし実際には言語行為の中心的なものである、とこの箇所では強調される。その強調のためにこの箇所が書かれこの事例が挙げられているといっても良いほどの箇所である。

ところが、この書の第三部そしてまとめではそれが無効化している。この箇所で述べられた「自分の発話に対する応接を相手に求める意図」という論点が、第三部で提示される発話解釈のモデルには組み込まれていないのである。つまり、「ちょっとコピーとって」と言われた部下が「コピーをとってくれというこの課長の発話に、自分が応接することが可能か否か」といった解釈プロセスが想定されていないのである。想定されるのは「コピーをとることが自分に可能か」「コピーをとることが課長に可能か」「コピーをとることが自分に望ましいことか」「コピーをとることが課長に望ましいことか」などばかりである。すなわち「コピーを部下にとらせる」という課長の意図に対応した論点は考慮に入れられるが、その一方で「自分の発話に対する応接を部下に求める」という課長の意図に対応した論点が考慮から抜けているのである。そのため、この書の第二部第四章あたりの議論が使われることなく終わっており、大変勿体ないことになっているのである。また、発話解釈のモデルとしては決定的に不充分になってもいるのである。

ここで、「コピーをとってくれというこの課長の発話に、自分が応接することが可能か」といった受け手の想定がされないのは、課長の発話を「解釈」するためにはあまり関係ないからで(も)ある。というか、すでにコミュニケーション可能場面が成立している場合には、たいがいの発話というものは、「対応しないのは良くない発話」か「対応しても良い発話」かのどちらかである。「対応するのが良くない発話」であることはあまり無い。つまり、発話解釈にあたって「この発話は応接しなくてはいけない発話か、それとも応接しても良い発話か、どちらだろう?」という二択になることがほとんどであり、どちらにせよ発話に応接することは前提なのである。なので、「課長の発話によって自分は何をしなくてはならないだろうか?」という想定を受け手が行なうときに、ことさらに発話自体への対応は前景化しないで当然視される。また、課長の側からしても、それは前景化しないで、いわば当然視されている。そういうことだ。だが、発話解釈のモデルとしてはそれが当然であるのは不充分であろう。

以上の点を踏まえて、p240-241にかけて飯野が提示している「発話解釈のプロセス」のモデルに修正を加えてみよう。まず「コミュニケーションとして有標か否か」が考慮される。これは、話し手の発話が「独り言」等でないかどうか、という観点である。この箇所も修正をしたいところなのだが、その点は後述する。で、次に提示されるのは「1.発話の命題内容は、聞き手が実現可能な事態か、否か?」「2.それが望ましいのは話し手にとってか、聞き手にとってか?」「3.要請は明示的に強く打ち出されているか?」とこれらを考慮して「発話の発語内行為は“懇願”である」と解釈される、という図式だ。ところが、これだと発話の執行的意図(例:コピーをとらせたいという意図)の解釈だけであり、発話のコミュニケーション的意図(例:「おいコピーとって」という発話に応接してほしいという意図)の解釈が欠落している。なので、次のようなタイプの項目が、1に先行するべきである。「発話に応接しなければいけないか、否か(義務の有無)」→「発話に応接してよいか、否か(権利の有無)」→「発話に自分が今応接可能か、否か(可能か不可能か)」といった段階である。つまり、たとえば「口にものが入っていて、今すぐには返事ができない」などの状況にあるか否か、といった考慮である。これらののちに、「1.発話の命題内容は、聞き手が実現可能な事態か、否か?」以降のプロセスを辿ることになる。ただし、発話に応接可能かどうかと、発話で求められている内容(例:コピーをとること)に対応可能かどうかとは、無関係では全くなく相互に影響を与えるという関係にあるため、実際には、同時並行的に「発話解釈」が行なわれることになるだろう。

さて、以上の説明はすでにコミュニケーション可能場面が成立している場合の話である。そもそもコミュニケーション可能場面であるとは言えない場合や、まだ成立していない場合には上記の説明は適用できない。その事例を次に参照する。この事例を参照することで、先の発話解釈モデルの第一段階である「コミュニケーションとして有標か否か」の箇所も修正を要することになる。

コミュニケーション可能場面であるか否か、という観点

服部裕幸著『言語哲学入門』(2003,勁草書房)(amazon)の第八章「プラグマティックス」の冒頭で次のような事例と解説が提示される。

ヒロユキはある大学の教師である。教室に入ると学生たちがざわざわとおしゃべりをしていた。この大学は他の大学と比較して学生の勉学態度が良く、彼が「はい、始めます」と言うと教室は静かになった。彼は、学生たちが静かになったあと、いつものように前回の話の復習から講義を始めた。しかし、その途中で、要点を黒板に書こうと黒板に向かったとたん、(いつものことだが)教室のあちこちでざわざわと私語が始まった。そこで彼は、学生たちに向かって、「君たちはおしゃべりしないとノートが取れないのですか?」と言った。すると、私語は止んだ。

このような授業風景は昨今ではありふれたことかもしれない。いやどちらかといえば良い方かもしれない。多くの大学教師は授業中の学生の私語に悩まされているのであるから。それはともかく、この例で注目したいのは、ヒロユキの「君たちはおしゃべりしないとノートが取れないのですか?」という発言に対して、学生たちが一人も「はい、そうです」とか「いいえ、そんなことはありません」と答えるようなことがないということである。(実際、そんなことを言う学生がいたら、ヒロユキは怒り心頭に発して「君のような学生にはこの場にいて欲しくない。出て行きなさい!」と怒鳴るに違いない。)それはなぜなのだろうか。答えは明白である。ヒロユキが言ったこと、あるいは言いたかったことは、君たち、静かにしなさい、ということであり、学生たちもそのことを理解したからである。ヒロユキは学生たちのある種の能力について尋ねた訳ではないのである。

この事例に服部が与えた解説を読むと、先に私が与えた「まずコミュニケーション的意図の解釈→次に執行的意図の解釈」という手順が疑わしく思えてくるだろう。服部の説明から帰結するのは、こうだ。この場合、まず先に「君たちはおしゃべりしないとノートが取れないのですか?」という発話の、執行的意図の解釈が先行する。つまりこの発話は「質問」ではなく「非難」である、という解釈が先行する。そうでないと、もしこの発話を「質問」だと解釈すると、それに対して「いいえ、そんなことはありません」のように応答してしまうだろう。しかしそんなことをされたら、服部ならば怒り心頭に発することになる。だからそうならないためには、この発話は、執行的意図の解釈が先行し、そののちにコミュニケーション的意図の解釈を行なう、という手順を踏む必要がある、ということになるわけだ。

しかし、服部の解説から帰結するだろう上記の立論のように考える必要は、実はない。というのは、大学の講義を想定したこの場面を、そもそもコミュニケーション可能な状況と服部は無条件には捉えていないからである。

先に挙げた、飯野の著書での「コピー取りを命じる課長」の事例で、課長が「自分の発話への応接」を意図するのが適切なのは、この状況が「コミュニケーション可能」な状況だからである。他方、そうでない場合もあるだろう。「大学での講義」にもそのような場合は実際には少なくないことだろう。教師と生徒の間に無条件でコミュニケーション可能である、とは言えない状況はいくらでもありうると思う。現に服部自身もこの講義を「無条件にコミュニケーション可能」とは見なしていない。見なしていないからこそ、教師の発話を「質問」と解釈した学生からそれへの応答があれば怒り心頭になる、という設定になるわけだ。講義以外にも、裁判だったり儀式だったり演説の最中だったりなど、話し手と受け手とがコミュニケーション可能であると無条件には想定できないケースはままある。そのような違いがあるため、飯野の著書にあったような「課長と部下」のケースとは明確に異なる。

服部の挙げた事例はだから、執行的意図の解釈が先行し、あとからコミュニケーション的意図の解釈を行なう、ということの事例だと見なす必要はない。むしろ、発話解釈のもっとも初期の段階で「まずこの状況はコミュニケーションが可能か否か」という項目で判断が下されている、と見なすべき事例なのである。

この点を踏まえると、飯野の先の図式で最初に「コミュニケーションとして有標か否か」という項目で解釈が行なわれ「そもそも相手の発話が独り言でないか」が判断される、という点も修正を要することになる。というのも、「大学での講義」のように、別に独り言ではない発話であっても、発話自体に「応接しなければならない」義務などなく、むしろ「応接してはならない」義務があるほどだ、という場合もあるからだ。裁判や儀式やスピーチなどにもそのような場合があるだろう。発話解釈の最初の段階に来る判断項目はだから「この場面はコミュニケーション可能な場面か、否か」である。

ただし、ここで前段落の書き換えを要することにもなる。「この場面はコミュニケーション可能な場面か、否か」という項目で「無条件に可能ではない」と判断された場面においても、ある意味では「相手の発話に応接する」ことが要求されるからである。それは「傾聴」という形の応接である。ヒロユキは自分の「非難」に対して、「応答」という形で応接する学生がもしいたら怒り心頭に発するのであった。が、他方で、学生がそもそもその「非難」する自分の方をまったく向いていなかったり、寝そべっていたりしたら、それはそれでまた怒り心頭に発するであろう。ここでは「ヒロユキの発話をただ黙って真剣に傾聴する」というタイプの応接こそが要求されているという場面だったのだ。「コミュニケーション可能、と無条件では言えない」場面の少なくない場合は、全体的にもそういう傾向が強いだろう。そこで独演的・儀礼的になされている発話に対しては、「応答」したりしてはいけないのは無論だとして、かといって「そもそも話者の方向を向いていない」とか「寝そべっている」といった「応接」はいっそう許容されがたいだろう。また、事後に「あの時、話者が何を話していたか」を尋ねられたとして、「まったく覚えていない」などという回答をすることが許容されえないという場合も少なくないだろう。ともあれその意味でも、発話解釈の最初に来るべき解釈項目は「この場面はコミュニケーション可能な場面か、否か」なのである。

なお、コミュニケーション可能性はここでは規範的な可能性を念頭においてここまで述べてきたが、物理的な可能性も含めて良い。たとえば、周囲の騒音が異常にうるさくて音声が正確に聞き取れない場面でも「コミュニケーション可能か否か」という論点は前景化するだろう。あるいは、テレビからの音声に対してつい間違って応じてしまった場合などにも、「テレビの画面内の人物とはコミュニケーションは物理的に不可能だったな」と思い直すことができる。

さて発話解釈の最初の段階に「この場面はコミュニケーション可能な場面か、否か」がまず位置するために、その後のプロセスもそれ前提で進行することになる。先に述べた図式に、その点を加えると、

といった流れになる。「この場面はコミュニケーション可能な場面か、否か」と「発話に応接してよいか、否か(権利の有無)」とは重複しているようだが、あながちそうでもない。コミュニケーション可能場面だが、他の者ならともかく自分は発話に応接しては良くない、というケースもありうるからだ。

また、飯野が挙げた「コミュニケ―ションとして有標か否か」(独り言ではないかどうか)という項目は、ここでは「発話に応接しなければいけないか、否か(義務の有無)」という項目に吸収される、ということにしておく。もし「独り言」であるなら、発話に応接する義務は少なくとも無いな、と判断して、次の項目に進むことができるわけだ。そしてこの段階で、他にも想定できるさまざまな重要な判断も併せて行なうことになるのだ。「あの発話は私の知人のものであるか否か」とか「あの発話は私に向けられているものか否か」などである。それらもすべて「発話に応接しなければいけないか、否か(義務の有無)」という項目のなかで判断されることになる。

この段階に後続して、飯野が挙げるような諸項目を判断するというのが、発話解釈の図式になるだろう。すなわち飯野が縷々論じているような、

といった項目群である。ただし、話は逸れるがついでに述べておくと、「発話の命題内容は私にとって既知だが、話者がその内容を知っているということは私にとって未知である」といったケースは、やはり第二部では考慮されていたが、第三部ではいつのまにか消失していた観がある。なので、この点も考慮に入れた図式が当然望ましい、と言えるし、そのためには図式にさらなる修正を加える必要があるだろう、と言える。ただこの点はここではこれ以上論じない。

執行的意図が「質問によって答えをひき出す」である場合、という特殊ケース

以下はかなり未熟な思いつきです。ご了承ください。

このように、「発話自体にいかに応接するか」を発話解釈の一部に組み込んでみると、新たに気づくことがある。それは「執行的意図」が「発話以外の何かをさせる」意図である場合と、「発話をさせる」意図である場合とで、ありさまが異なってくる可能性がある、ということである。こういうことだ。「コピーをとらせる」という執行的意図である場合、コミュニケーション的意図は普通に「“コピーとって”という発話に聞き手を応接させる」意図である。ところが、「質問して回答をひき出す」という執行的意図である場合、コミュニケーション的意図もまた「質問に応接させる」意図であることになる…ように思えることだ。この場合、「質問への回答」は「質問への応接」とイコールであり、重なるということになるのだろうか。それともそうならないのだろうか。あるいは、質問に対して「回答だけ」するという応接だと、まるで「コピーとって」という発話に対して無言でコピーをとって無言で渡す部下のような応接になるのではないだろうか。そのようにひとまず考えをめぐらすことが可能である。

ただし「執行的意図」が「コピーをとらせる」であるのと「質問して回答をひき出す」のとでは、相違もある。タイムラグの有無である。こういうことだ。「コピーをとらせる」場合は、コピーをとるという時間がかかるので、「コピーをとらせる」という執行的意図に対しての応接と、「コピーとって」という発話への応接との間にタイムラグがある。だから、「コピーとって」という発話自体へまず応接がないと、失礼あるいは不親切あるいは不自然に感じることにもなる。他方、「質問して回答をひき出す」のとでは、「回答をする」という「受け応え」と、「質問」に対する応接とは、合わせて一回でも構わないように思える。ここにはタイムラグがないので、「回答」をするという「受け応え」でもって「発話への応接」を兼ねるということが可能に思える。なぜなら、相手を待たせている時間というものが無いように思えるからだ。

この件に関して、形式的に考えてみることもできる。まず「部下にコピーをとらせる」という執行的意図の発話に対して、次のような4通りの部下の応接を想定することが可能であろう。

  1. 課長は「ちょっと、コピーとって」と部下に言う。部下は「はい」と発話してコピーをとり、「はい」と課長に渡す。
  2. 課長は「ちょっと、コピーとって」と部下に言う。部下は「はい」と発話してコピーをとり、無言で課長に渡す。
  3. 課長は「ちょっと、コピーとって」と部下に言う。部下は無言でコピーをとり、「はい」と課長に渡す。
  4. 課長は「ちょっと、コピーとって」と部下に言う。部下は無言でコピーをとり、無言で課長に渡す。

少し牽強付会かもしれないが、筆者の思いつきを述べてみる。私たちのコミュニケーションというのは、「執行的意図」に対する応答等の応接と、「コミュニケーション的意図」に対す応答等の応接と、両方が期待されている。少なくともそういう場合というのがある。なので、どちらか片方の応答等の応接のみの場合でも、「期待が満たされなかった」印象を残すことになる。これである。

上の想定で3番目の「無言でコピーをとる」ことの「不充足感」というものは、話者のコミュニケーション的意図に対する応答等の応接が不充分であったことから来るものである。つまり「ちょっと、コピーとって」という発話に対する応答やその他の応接が不在であったことから来る。他方。2番目の「無言でコピーを課長に渡す」ことの「不充足感」というものは、話者の執行的意図に対する応答での応接が不充分であったことから来るものである。つまり、「ちょっと、コピーとって」という発話の発語内行為(命令とか依頼とか)に対する応答やその他の応接が不充分であったことから来る。というのも、これは「ちょっと、コピーとって」という発話自体のほうには応答があったというケースなので、生起するのはタイムラグがあるとか相手を待たせているといった不満ではないはずだからだ。いずれにせよ「コピーをとらせる」という執行的意図に対して、無言でコピーを渡すというのは、「充分な応接」ではなかったのだ。

ただし、どんな場合にでも、「執行的意図」「発語内行為」に対する応答等の応接が要請されているはずだ、と断定はできないだろう。コミュニケーション可能場面でない場合は当然として、それ以外の場面でもコミュニケーションというのは飯野もどこかで述べていたが、「必要なことを言え」「不必要なことは言うな」という両側からの要請に迫られていることが多いものだ。その「不必要なことは言うな」の要請を重視した場合、あらゆるコミュニケーション可能場面で、等しく「執行的意図」に対する「応答」的応接が求められるとは考えにくいからだ。

そのように考えると、「質問への回答」は「質問への応接」とは重ねられ、「合わせて一回」となることが、不自然でなくなる。「質問する発話への応接」と「質問するという発語内行為への応接」とは、合わせて一回分の応答で済まされることが不自然でなくなるのだ。むしろその場合のほうが多いくらいかもしれない。「発話自体への応接」によって「回答」までの所要時間が長くなるくらいなら、「応接」は省略して「回答」を早くせよ、というケースは多いはずだからだ。

もちろん、この節で述べてきた事柄は「“質問する”という発語内行為と“非難する”“感謝する”“依頼する”する等々といった発語内行為とは、カテゴリーミステイクを引き起こしているのではないか?」という疑念を回りくどく言い換えたものに過ぎない、とも言えるだろう。ただ、カテゴリーミステイクでないことを示すためには、「文法的にはまったく疑問文ではないのに、発語内行為としては“質問する”を行なっている」と言いうる事例を考案する必要が少なくともあるだろう。私には今そのような方向に進める準備は特にない。

飯野の『言語行為と発話解釈』の第三部では、発話解釈は大づかみには「信念タイプか、行動タイプか」という二分法に従って行なわれると論じられていた。相手の発話を解釈するにあたって、「この発話は何かをさせるものか、そうでなければ何かの信念をもたらすものか」というふうに解釈するものだ、というわけだ。だがそれは相手の執行的意図にのみ照準した解釈である。コミュニケーション的意図のことを考慮にいれれば、どちらかと言えばかなり多くの発話は「発話自体への応接」は要求しているのである。むろん「信念タイプ」の発話であってもそうである。なので、その点を考慮にいれれば、「ほとんどの発話は行動タイプ」なのである。そうでない場合の多くは、その状況がコミュニケーション可能状況でない場合にほかならないだろう。その点で飯野のモデルは不充分な点を残してしまっている、と指摘できるのである。

おまけ

今回の論題に関して、参考になるかもしれないマンガ作品の1シーンがあるので、ご紹介する。あずまきよひこ著『よつばと!』第14巻に収録された「第94話 よつばとまえのひ」にそれは登場する。スーパーマーケットでの、レジ店員と青年客との会話である。

よつばとまえのひ

青年客がレジ店員に「このカード 子供だけですか?」と言った。レジ店員は青年客に「子供だけです」と言った。

この1コマは私の個人的印象では「あるおかしみ」を提示しえているものだと読むことができる。その「おかしみ」というものをもし言語化すれば次のようになるだろう。

普通、サービス業に従事する者ならば、客の質問に対して、「客がより知りたがっている情報」から順に提示するものだろう。そうすると「このカード 子供だけですか?」という質問に対しては「はい、子供だけです」などのように、まず、「はい」という肯否情報から述べ、あとからそれを丁寧に補足する、というふうに述べるものだろう。ところが、この店員はその「はい」を述べずに「子供だけです」とだけ述べ、客の知りたがっている情報を提示するのに僅かだが時間をかけている。その点がサービス業の成員として少しドライな応対のように見える。が、他方、「はい」と結論だけ述べ、それ以上答えないとしたら、それはサービス業の成員として許容される「丁寧さ」の度合いを大きく下回ることになるだろう。その点で、この1コマは、許容範囲内でのドライな応対というものを端的に提示したもののように見える。それがこのコマの提示している「おかしみ」である。

ところが、ここで次のような事柄を考慮して上記の印象を覆すこともできるだろう。アカデミックな会話分析で指摘されるように、一般に私たちの相互行為では、相手に好都合な応答は優先的に早く提示されるのに対して、相手に不都合な応答というのは遅延される傾向が広汎にみられる。このマンガの場合、相手に好都合な応答というのは「カードは大人も利用できる」であり、相手に不都合な応答というのは「カードは子供しか利用できない」である。なので、もし前者であるなら店員は即座に「いえ、おとなも使えます(、よろしかったらこれをどうぞ)」などと発話することが予想できる。しかし、実際にはカードは子供しか利用できない。なので、応答は遅延されることが予想できる。そして実際「はい、子供だけです」とは言わず、「子供だけです」とだけ発話している。ということは、応答は遅延されたということにもなる。なぜなら「子供だけで」まで聞いても肯否のいずれかが判明しないからである。つまり、後続する「す」まで聞いて、初めて肯定の返答だったことがわかるのである。そこで次のようなことが言いうる。もし、ここで「はい」を即答で述べて「相手に不都合な応答」であることを早期にわかるように述べてしまうと、いくぶん配慮が足りないように思える。場合によっては店員が「喜んで」いるようにも見えかねない。サービス業に従事する者としてはできれば避けたい展開である。マンガに登場する店員は「はい」等を述べないことで、これを回避しえている。そういうわけで、このコマの提示しているおかしみというのは、店員が単にドライな応対をしたというのではなく、一般的に想定可能なリスク可能性を踏まえたうえでそれを巧妙に回避したという職業的なスマートさである、と見なすことができる。

また、次の点も見てとることができる。店員の応答が「スマート」であるという印象は、客の発話の言語要素に一言も「自分(側)の言葉」を付け加えていないことからも来ている。たとえば「申し訳ございません」などの発話がない。そうせずに、相手の発話の一部を単に反復するだけで、応答に必要な事柄をすべて提示できてしまっているのだ。

上記の立論を踏まえて、ありうべきやり取りのパターンを図式化したのが次の箇条書きである。下に行くほど「リスクの高い」やり取りになっている。

  1. 青年客がレジ店員に「このカード 子供だけですか?」と言った。レジ店員は青年客に「申し訳ございません。子供だけです」と言った。
  2. 青年客がレジ店員に「このカード 子供だけですか?」と言った。レジ店員は青年客に「子供だけです」と言った。
  3. 青年客がレジ店員に「このカード 子供だけですか?」と言った。レジ店員は青年客に「はい、子供だけです」と言った。
  4. 青年客がレジ店員に「このカード 子供だけですか?」と言った。レジ店員は青年客に「はい」とだけ言った。

ここで一番上の項目で店員の応答に「申し訳ございません。」という発話がある。これは「謝罪」という発話内行為ではないことが重要だ。これは「遺憾の意の表明」とか「恐縮」といったあたりまでだろう。つまり、何か店員や店舗が犯した過失に対処した発話というわけではなく、かといって客の発話の遂行的意図(回答をひき出す意図)への応接でもなく、客の発話自体への応接であると受け取ることができる。ところが、その応接によって、実質的には客の遂行的意図にも寄与することにもなる。つまり、「子供だけです」という「客にとって不都合な回答」を予告することができるのである。その点で、もっともリスクの少ない応接のパターンのように思える。相手の発話の遂行的意図にもコミュニケーション的意図にも応接し充足しえているからである。

ただ日本語の発話での「申し訳ございません」は形骸化しているとも言える。というのは、少なからぬ場合、「申し訳ございません」と述べながら、その後に「申し訳」の発話が後続することが常態だからだ。このような形骸化した表現のタイプの語群自体が、いささか気が重くなる、と見なす客というのも少なくないはずだ。その意味ではこの応答パターンがリスクがないわけではない。

と、そのように考えてみると、一見したときの印象よりも、マンガの中の店員がとった応答行為というのは、リスクの少ないスマートな対応であったと判断しうることがわかる。ただし、その対応というのは、相手の執行的意図には応接しつつ、コミュニケーション的意図には応接しない、というものに見受けられた。つまり、飯野の著書から展開したコピー取りの事例で行けば、「“コピーとって”という発話に対して無言でコピーをとり、“はい”と手渡す社員」というのにどうも近いタイプのようにも見えるのだ。もちろん、「コピーをとらせる」という執行的意図と「回答をひき出す」という執行的意図とは異なるため、単純化はできない。またこの店員の応答が、「相手に一刻も早く情報を与える」というふうになっていないがゆえに、かえって礼節にかなってもいる、という面もあることも指摘した。だがいずれにせよ、ぱっと見の第一印象としては似通ってくることも否定できない。要はその事を言ってみたかったのである。読者の皆さんの参考になることを願うばかりだ。