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2017-04-30

言語習得のモデル 「いわゆる具体→抽象」ということの実際について

少なくとも次のようなタイプの「習得過程」は理念的には存在する。 「抽象的」とか「理念的」と言われる言語使用の一部はこのタイプに分類される。学者の名前で言えばレイコフあたり。

ただし子供の言語習得は、「具体→抽象」というふうに進行しているとばかりは到底言えない。(むしろ、規範的な言語を否応なしに習得させられ、事後的に価値中立的な言い方を学習することも多い。)

これらを比喩と呼ぶのも保留した方が良い。何が比喩であり何がそうでないかは、比較的どうでも良い。

これらの表現を、受信する立場で理解できるのと、発信する立場になって使いこなすことができるのとは、別次元の能力である。後者に関しては、いわゆるコロケーションを使う能力と同様のものが要求される。つまり、「こういう表現は存在する。こういう表現は存在しない。」という「知識」である。しかし、受信して理解するだけなら、その種の言語知識は無くてもなんとかなることが多い。

  • 「砂糖が甘い。」→「考えが甘い。」
  • 「風船が浮いている。」→「仲間内であの人が浮いている。」
  • 「ヨーグルトには乳酸菌が含まれている。」→「料金には消費税が含まれている。」→「あの人の発言には毒が含まれている。」
  • 「万有引力の法則が働いている。」←「父は商社で働いている。」
  • 「ペットを育てる。」→「アイデアを育てる。」
  • 「自転車を倒す。」→「敵を倒す(斃す)。」
  • 「18は7では割り切れない。」→「割り切れない思いがする。」
  • 「夜風が冷たい。」→「あの人の態度が冷たい。」
  • 「この住宅は土台がしっかりしていない。」→「学生時代の経験を土台にして社会人として生きる。」
  • 「栄養をとる。」→「連絡をとる。」
  • 「都心部に人口が集中する。」←「勉強に集中する。」
  • 「フィリピンはアメリカ合衆国の植民地だった。」→「北里大医学部は慶応義塾大医学部の植民地だ。」
  • 「右の方向にハンドルを切る」→「彼は自分の都合の良い方向に会議を誘導した。」
  • 「マラソンのゴールは○○競技場だ。」→「ゴールの見えない議論にうんざりした。」
  • 「大波が船体を覆した。」→「彼の手法は常識を覆すものだ。」

2017-02-18 見逃されてきた日本語講義の聴解の困難

追記:音声ファイルの「解答」を補足しました。通常の音声での講義にこのような「解答」が提供されることはまずありませんので、特別サービスです。

浅羽通明氏や野村一夫氏が紹介しているように、大学受験での偏差値が高かった者が、大学での文系内容の講義を理解できないという事態はまったくありふれた事態である。そして、彼らのようなタイプの論者は「受験勉強→暗記で済むもの、大学の講義→高度な理解力が必要になるもの」という二項対立でこの事態を処理して、それ以上の追求をしていない。しかしこれは事態をあまりに単純化しすぎている。そこでここではたった一つの点に絞って、問題を提起してみたい。それは「試験は文字の処理能力を要求する/講義は音声の処理能力を要求する」という相違である。つまり、偏差値が高かった者は文字の処理能力が高かったということであり、その彼らが講義内容をよく理解できなかったのは音声の処理能力が低かったということである、と、こういった二項対立で事柄を見てみようというわけだ。

音声言語と文字言語とにはいくつかの重要な相違がある。最大の違いはもちろん、音声はその場では次から次へと消えていくのみであるのに対して、文字はわからなければその場ですぐに、前に遡って読み返すことができることである。その次に重要な相違は、文字には活字があるが音声には活字に匹敵するもの(「活声」)があるとはとても言えない、ということである。つまり、文字言語には活字があるため、相手の字をわざわざ判読する必要にはふつう迫られないが、他方で音声言語の場合、アナウンサーでも声優でもない相手の必ずしも明晰でない音声を、正確に識別しながら聴き取ることはそれ自体がかなり高度な技芸である。あるいは、たとえば音声読み上げソフトの音声は、文字でいう活字に匹敵するような互換性や性能をもつわけではない。そしてまた仮にアナウンサーのように適切な発音や抑揚ができる音声ソフトが今後開発されたとしても、次の点で、文字と音声とは比較にならないほど性能が異なる。すなわち、音声言語では「漢字」「平仮名と片仮名の違い」「句点と読点の違い」「括弧」「段落」などを表すことができない。なので、文字言語でこれらに依存していた表現は、音声だと、たいていの場合聞き手の能力や努力に一方的に依存して、かろうじて伝達されるものとなる。

ここでの音声言語として考慮の対象にしているのは、講義や演説やスピーチのように話者の交代が原則として起こらない言語活動(での音声)である。すなわち、複数名での会話や座談会のような、話者の交代が頻繁に起こりうる言語活動を考慮においたわけではない。ということはつまり、いわゆる会話に見られるような「話者の交代への対策」として採られるような発話上の方策は、考慮に入れる必要がない。たとえば話者交代に備えるための「文法上の崩れ」などは考慮に入れる必要がない。だから、文言としては文字の論文や説明文のようであるのだが、それをたまたま今回は音声で話しているに過ぎない、という文言になっていると解してよいのだ。

ここまでの事柄を考慮に入れると、次の点で、文字での講義録よりも音声での講義のほうが難解になりうる。

まず日本語は述語が文末にほぼ必ず来る言語languageである(諸言語のうちの一つの言語である)。そして文字だと句点があるが、音声にはそれが無い。ということは、一文が完結したかどうかは、文字だとその時点でわかるが、音声の場合「次の文に突入してしばらくしてから」初めて判ることになる。ということは、そこから導出される重大事態としては、こうだ。「文が肯定文だったか否定文だったか」も文字だとしばしば文末で初めて明らかになるが、音声だと「次の文に突入してしばらくしてから」初めて判ることになる、これである。だから音声での講義等を聴く場合は、「次の文に突入した」時点で、聞き手は「一個前の文と今話されつつある文と」二つの情報を同時並行的に処理しなくてはならない。まして、えんえん続いたあげく前の文が否定文だった場合は特になおさらである。

だからたとえば、文の区切りをなるべく早く聞き手に伝えるためには、文頭でできるだけ接続詞を用いるように、話者が心がけるしかない。これなら「次の文の文頭」で「あ、前の文は実は終わっていた」ということがはっきり伝わりうるし、次の文の情報の予告にもなっていて聞く構えもできるから、音声情報の二重処理が少しは楽になる。文字での接続詞は後続する内容の予示の機能だけだが、音声の場合、加えて「そこが文頭であることの告知」機能が重要だ、というわけだ。ただ、接続詞を文頭に使ったほうが親切なのは、何も音声に限ったことではなく、程度の差はあるものの文字でも同じことだ。そして文字でそれを意識的に行なっている者が特に多いとは決して言えないだろう。ならば音声でもおそらく多くないだろうと予測できはする。

文の区切りについて言えることは、段落についてはなおさら言える。つまり、文字の場合と異なり、音声では「改行」も「段落」も示すことはできない。すなわち、それをするためには「今から別の話題に入ります。」とそれ自体一文相当の音声によって、話題の転換を予示することしか手段が無い。

これらの点からだけでも次のことたちが言える。たとえば「わからないところがあったらその場で質問して結構です」と述べる演者が居るものだ。しかしこれを文字通り実行することはなかなか困難だ。少なくとも「わからないと感じた瞬間」に質問を実行することにはリスクがある。というのも、その後に補足説明が後続するのかもしれないからだ。そして、質問したら「そこはこれから説明しようと思っていたところです」などと言われることになるのかもしれないからだ。だがしかし少なくとも、音声での講義には「段落」というものが聞き手にとっては無いので、配布物や画面の文字での補足があるならともかくそれが無い場合、「今が段落の途中なのか段落の終了地点なのか」すら聞き手にわからないことも多い。わからない点についての質問はせめて「段落の終了時点」で行なったほうが安全であると考える者が前記の理由により多いだろうし、そうであれば、このような「その場で質問して結構です」にはあまり意義がないのだ。例外的に、せいぜいその時の音声が聞き取れなかったという場合くらいにしか役立たない。なお、これに関連してこういう場合もあった。ちょうど筆者が「質問しよう」と感じた頃に、講演者が「あ、今している話題はまだ続きます」とたまたま言った。なので、筆者は質問を先延ばしにした。すると、この講演者は何の予告もなくいつの間にか別の話題に突入させていたのだ。つまり演者は「話題の継続」の提示は行なったが「話題の転換」の提示は行なわない、というとてもアドホックで嫌なことを行なったわけである。

あるいは「この講義はノートを取ったりしないで、聴くことに集中してください」という演者が居るものだ。これは能力に因るのかもしれない。しかし少なくとも筆者のようなタイプにはまったく逆効果である。目安としてはこうだ。会話をしている最中に突然話題が転換してしまうこと、というのがままある。そういったときに「そうそうそれでさっきの話題に戻ると…」と言って容易に戻ることのできる人もいれば、そうでない人もいる。筆者はたいがいの場面で後者である。この「転換してしまった話題を前の話題に戻すこと」ができないタイプの人であれば、「聴くことに集中」するためにこそむしろメモやノートを取ることが必要になるものだ。おそらく「ノートを取ったりしないで」と言うような人は、話題が転換したときさっと戻すことのできるタイプなのだろう。ただ世の中にはそうではないタイプの人もいるのである。あるいは、過去の体験を振り返って「誰と楽しく会話した」ということはよく覚えているが「ではどんな会話だったのか」と思い出そうとするとほとんど思い出せない、という人であれば、ノートは無論取ったほうが良い。その一方で、世の中にはその時の会話をありありと想起し再現できるタイプの人もいる。たとえば土屋賢二氏の臨場感あふれるエッセイなどがそんな感じである。おそらく「ノートを取らないほうが聴くことに集中できる」という講演者もそのタイプなのだろう。ただ世の中にはそうでない人もいるのである。

あるいはまたこういうこともある。浅羽通明氏は『大学で何を学ぶか』で大要以下のようなエピソードを紹介していた。こうである。大学の講義で「ふつうはAだと思われているが、実はBなのである」という内容が話された。ところが勤勉なだけで低脳である大学生はその講義を「Aである」とだけ聞き取っていた、馬鹿である、といういものだ。いっけん浅羽氏の述べるような「馬鹿」大学生も居そうに感じられるが、その一方で次のようなことも言える。「Aではなく実はBである」ということが聞き取れるためには、「A」や「B」がきちんとした「始めと終わりをもつまとまり」として聞き取れる必要がある。いつのまにかある話題が開始したり、いつのまにか別の話題に転換していたり、といった、区切りのあやふやな話し方・講義であるなら、そのような論理構造を把握する以前に要素の把握すら困難である。さて、講義者はきちんと話題の区切れ目を明示し接続詞等もきちんと用いていたにもかかわらず、聞き手の大学生の方だけが低脳だったためにそう把握できなかった、ということは浅羽氏の紹介だけでは確信できないはずである。そのことはぜひ言っておきたい。

さてさて、ここまで述べてきた基本問題に加えて、現代日本語というのは、明治の前半頃に先人の努力によって作られた、同音異義語をもつ山のような漢字熟語たちがごく自然に使われている言語なのである。そして、言うまでもないが、講義・講演を行なう者たちが黒板や配布物や画面の文字などでそれら同音異義語を適切に補足解説していることは、きわめてまれなのである。読者のかたもきっとそんな授業や講演などめったに体験したことが無いに違いない。

注意してほしい。述語が文末に来るであるとか同音異義語が大量に存在するであるとか、そういう問題は欧米語にはまったく無関係の問題である。つまり日本語に固有の問題といって良いほどのものなのだ。だから言語学で「音声言語の処理のほうが文字言語の処理より難しい」などという問題意識が取り扱われることは、まずない。あるいは、欧米で社会階層の分断の要因となっているのは、識字能力のほうが圧倒的であり、音声言語が階層を分けるとすれば、せいぜいフランス語のリエゾンの聞き取りか、それも含めて「上流階級のようなきれいな発音であるか/が聴き取れるか/否か」といったタイプの問題しかない。日本の場合であっても筆記試験が社会階層を分ける度合いが高いため、「日本語の聞き取り問題」が社会階層を分断しているという徴候はあまり感じられないだろう。つまり社会学的にも日本語聞き取り問題は扱われにくいわけだ。いずれにせよ、欧米のアカデミシャンが「日本語に特有の聞き取りの困難」を問題として提示してくれることなど期待できないし、それは近似的に云えば、そもそも学問全般が「日本語の聞き取り問題」を扱ってくれることすら期待できないということなのだ。

最後に、筆者が思いつきで作成した「聴解力試験」のような音声データへのリンクを付けておく。ただし、これはまだ思いつき程度であるし、音声ソフトの性能もごく低い。ただ、「聴解力試験」という概念自体が根付き、日本社会に定着していけば、「聴き手の能力向上」以前に「話し手の能力や工夫」のほうを向上できるかもしれない。そのような期待を込めている。

kikitori001.mp3 「解答」


2017-01-31 子供の語彙習得を俯瞰する

この文章は追加修正を予告なく行なうことがありえます。

この文章は、文自体の理解についてまず分類の続編にあたるもので、「文+状況」の全体を考える文の理解について扱っております。

子供の語彙習得について概観を得ておくために、独自見解を中心にまとめておく。さて、語彙の習得は1か0かみたいな話ではなく、終わりのない過程であると言いうるところがある。理由の一つは、日本語自体が日々少しずつ変化しているということである。別の重要な理由としては、語彙を習得するときに「その言い方は誤り」「語のその理解は誤り」という見本があってそれを回避する、という仕方で学習することは少ないというものだ。つまり、誤りに関して「免疫」があまりつかないので、単に「こういう表現もできる」という習得段階にとどまることが多いわけだ。また別の理由(というか事情)として、「他人がその語彙を使っているのを理解できる」段階と「自分がその語彙を使えるようになる」段階との間にも違いがあるし、この二つは一挙には達成されず、前の段階を経て、その後いつの間に後の段階も達成しているという形になることが多い、だからそういうわけで語彙の習得自体はかなり長期にわたった複雑な過程であるだろう…というものがある。このように語彙の習得は考慮すべき事情がいろいろあり、一筋縄では行かない。なのでここでは、最初のまず「他人がその語彙を使っているのを理解できる」という獲得段階にとりわけ関心を払って考えてみる。換言すれば「こういう言い方もできる」ということを言い方自体とともに獲得する段階である。

例を挙げる。「ボールを掴む」「チャンスを掴む」「コツを掴む」という語句の各々において、「掴む」の内容は大きく異なる。とりわけ、これらの語句を獲得する段階の子供の側から見ると、大きく異なると云える。

まず「ボールを掴む」という語句を理解するためには、直示的教示を行なえば良い。つまり、ボールの実物を子供に提示し、それを養育者が実際に手でつかんでみせるということをすれば良い。あるいは、その映像やアニメや絵でも構わない。ここで直示的教示に伴う哲学的懐疑を提案することは、もちろん可能ではある。だが他に方法は無いし、たいていの場合なぜだかこの語彙獲得はうまくいくものなのだ。なお、ここでは「手で掴む」ことに無理のない大きさのボールのみを対象に想定することにする。で、このようなタイプの動作を表す動詞を筆者は「特定動作動詞」と呼んでいる。

なお補足しておくと、「ボールを掴む」という動作は目的をもった活動の過程であり、その続きがあることを示唆することが重要かも知れない。たとえば「ボールを投げる」ための過程として行なわれることを示唆する、ということである。

もう一つ補足しておく。人間のようなものの「動作」を表す「特定動作動詞」と同様の習得を子供がするものとして、物質・物体のようなものの「物理的運動・反応・状態」を表す「特定状態動詞」も想定できる。「物質としての人間」の状態もこちらに含めて良い。習得のしかたのパターンも「特定動作動詞」に準ずる。

次に「チャンスを掴む」という語句の獲得である。「チャンス」というのが物理的状態ではなく、言語的(あるいは規範的)な状態である以上、「チャンスを掴む」というのも物理的な動作の物理的なあり方によって規定されているわけではない。が、かと言って、物理的な身体動作として現出しないというわけでもない。「チャンスを掴む」という語句に対応する物理的身体動作や付随する物質の運動は多くの場合、個々の場面に応じて事後的になら指摘可能である。このようなタイプの動作を呼ぶ語彙を、筆者は「不特定動作動詞」と名づけ、語彙獲得に関わる話題の際に注意を促している。これはつまり、何らかの動作を伴うことはほぼ間違いないが、かと言って動作そのものには別の名前や呼び方があり、その動作の固有性によって呼ばれるわけではない、という、そういう動詞的表現を呼ぶわけだ。かと言って、その動作は動詞内容の単なる手段というわけでもない。つまり、動作が指す状態はあくまで動詞の意味する行為・活動の過程の一部であって、目的に対する手段という位置づけとは異なる。

さて、このような「不特定動作動詞」のような語彙は、直示的教示のような仕方で子供が学習することは決して多くはないだろう。というのも、たとえば「チャンス」が言語的・規範的な対象である以上、「チャンスを掴む」というのも、「これがチャンスを掴むという動作だよ」というふうに教えられるのではなく、むしろ「チャンスを掴もう!」という勧誘文や命令文で最初に学ぶことが多いのだ。要するに学習の場面は、物理や知覚の水準ではなく、文意や規範の水準で行なわれ、それは勧誘・依頼・命令だったりすることも多いわけだ。で、最初に見本を示されて学習する語というのではなく、最初からその語を含む文がブラックボックスとして提示され、「まずは対応せよ」を求められることが少なくないわけだ。あるいはまた、不特定動作動詞は、巧妙なデフォルメをほどこしたアニメやマンガやイラストあるいは文学作品によって学習されることもあるだろう。規範的・言語的な概念なので、記号化した物語のようなものからの方が、「現実の社会的行為」からよりも、的確に習得できる可能性があるのである。

なお、念のため付記しておくと、「チャンスを掴もう」と勧められた場合や「チャンスを掴むぞ」と宣言した場合に、「チャンスを掴む」ための手段としての行為のほうこそを行なうのはむろん適切である。というのも、そもそも実際にチャンスを掴むまでは、何がチャンスを掴む行為であり、何がそのための手段であったかは不確定であり、その区別は事後的なものだからである。

そして次に「コツを掴む」という語句の獲得である。「コツを掴む」という語句は「コツを掴んだ、と当人が信じている」と「第三者が判断してコツを掴んだことになっている」との言わば合成のような語句である。すなわち「当人が信じている」ことと「第三者が判断してそのようになっている」こととが、ともに一定程度満たされていることが必要であるだろう語句である。第三者視点の必要性に関しては先の「不特定動作動詞」と共通なので、この動詞的表現の固有の問題は前者の「当人が信じている」という条件のほうにある。こちらの当人条件が求められるタイプの動詞的表現を「心的動詞」とでも呼んでおく。「心的動詞」の内容は身体動作ではない。また「苦しむ」のように「第三者判断」を要さない心的動詞もある。ただ、とは言え、「信じている」もまた二義的である。一つは「“コツを掴んだ!”という心的印象が生起したことを知っている」という点を満たしている場合がある。もう一つは「“コツを掴んだ”という心的印象の記憶は特に無いが、“コツを掴んだ”状態に自身があるということを当人が信じている」という場合である。いずれにせよ、これらの条件を満たしているかは第三者からは推測はできても観察はできない。身体動作を指すわけではないからだ。したがって他人がこれらを満たしていることを子供が直示によって学習することにも大いに限界がある。と言うか、むしろ直示によっては学習できないし、観察もできないし推測をするしかない、ということをも含めて学習するのこそが正しい学習だと言いうるほどである。そこで他の学習する機会は二パターンあり、一つは自分が当人条件を満たしているときに、養育者が適切な示唆を与えることである。もう一つは、文学作品や体験談あるいは巧妙なマンガ・アニメから「他人の心の中・頭の中の描写」を与えられ、それを通じて学習することである。

これにあと「発文動詞」という筆者の造語した類型を加えておけば、だいたいの動詞的表現はこれまでのどれかに分類できる。「発文動詞」とは言語を(単なる音ではなく)言語として発する、という事態を指すことのできる動詞を指し、その多くは音声言語・文字言語を問わず使うことが可能なため、大まかには「不特定動作動詞」の下位類型としておくのが良いだろう。音声を発するのと文字を書いたり打ったりするのとでは動作がまったく異なるが、行為としては同じようなことをやっている、と言えるからだ。さて、ここでは「発文動詞」は、「発文専用動詞」「発文可能動詞」とを区別せずに扱っている。これらもまた筆者の独自概念だが、前者は言語を発するときに限って適用される動詞であり、後者は言語を発するときに適用してもよい動詞である。子供が語彙を習得する段階ではこの区別は全く不要だが、その後場合によっては必要になることも無いではない。たとえば「顧客の要望にこたえる」は「答える」なのか「応える」なのか表記を区別したほうが良いと考えるときに、この区別がレリバントになっていると言える。「答える」なら発文専用動詞であるが、「応える」ならば発文可能動詞であり、またむしろ不特定動作動詞であるからだ。あるいは「怒る」や「喜ぶ」は、子供が習得するときにはまずは発文動詞として習得するが、その後これらは単なる発文可能動詞だったり、あるいは心的動詞だったりすることが子供の社会化の発達につれてわかってくる。つまり、人は怒ったり喜んだりするとき言語を発するとはまったく限らない、ということを子供は学ぶわけだ。そして、しかし最初は言語を発する場合で学ぶことになることが多い、というわけだ。

「発文動詞」を子供がどのようにして習得するのか、などもちろん推察しかできない。ただ概して言えば、「発文可能動詞」は訓読みをもつものがいくぶん多いのに対して、「発文専用動詞」は「漢字熟語名詞+する」といったものが多い。そのため、子供は「発文可能動詞」を先に獲得し、かなり長じてからようやく「発文専用動詞」を、対応する漢字熟語名詞の獲得後に獲得することになるだろう。―とそのように推察できる。そもそもコミュニケーションを記述描写する語である発文動詞を、自身がコミュニケーションが十全にできないうちに「習得」などできるはずもなく、あるいはまた「初期の獲得」にしてもその「必要性」「緊急性」は比較的低い。ようするにコミュニケーションできるようになることのほうが子供の発達課題であり、それを記述描写できるようになることはそれより以降の課題だと言えるのである。ただしそれは子供の周囲の環境の養育者がきちんと「手加減」できる者である場合に限られる、とは言える。たとえば国語科や作文教室での「マンガ作文」を教える教師がその「きちんとした手加減」ができる定見があるとは全く限らない、とは言える。

そして、動作の不在を示す「無動作動詞」(造語)を以上に加えておくと、筆者の分類の意図がより伝わると思う。以下に大まかな関係図と例を挙げる。ただし現実には、一つの同じ動詞が複数の分類にまたがると言いうる点もあるし、動詞の用法が複数化していることもある。以下はあくまで概要である。要は、子供の語彙獲得が、まず「身体動作と物理状態」の観察から開始するのが容易なはずであり、ではその後にどのような語彙獲得が課題になるのかを示す、という観点からの分類なのである。あるいは、五味太郎氏の絵本『うごきのことば 言葉図鑑( 1)』(amazon)で扱われているのが、主に特定動作動詞と喜怒哀楽(→顔の表情という身体動作に現われている)に関する動詞が中心であり、その他がいくぶんこじつけであるのに対し、その先にある発達課題を提示した一案とも、この文は位置づけられる。

なお、「行く」と「帰る」の違い、「行く」と「来る」の違い、「もらう」と「あげる」の違いなどは、今回考慮に積極的に入れていない。ただしこの区分が自己と他者の区別という規範的なものである以上、これらの動詞は不特定動作動詞に入れるのが適切であるように思う。

  • 特定動作動詞(例:ボールを掴む、歩く、泳ぐ、座る、食べる、見つめる)
    • 特定状態動詞(例:燃える、落ちる、回る、伸びる、太る)
  • 不特定動作動詞(例・チャンスを掴む、調べる、練習する、処分する、まねする、運ぶ、殺す)
    • 無動作動詞(例:怠ける、無視する、沈黙する)
    • 発文可能動詞(例:挨拶する、拒否する、阻止する、対応する、なお、「怒る」「喜ぶ」「悲しむ」「笑う」「驚く」も当初は発文可能動詞として習得され、のちに心的動詞の用法とに分化する、つまり「行為として怒る」と「精神的に怒る」との二用法をもつ二義語となる)
    • 発文専用動詞(例:論じる、返事する、紹介する、ほめる、言及する)
  • 心的動詞(例:コツを掴む、賛成する、好む、想像する、考える、味わう、読む(、見える))

2017-01-21 「大学選び」が必要になってしまう大学側の状況

高校生が大学選び・学部学科専攻選びをするためには、「大学での卒論の予行練習」のような文章を時間を大いにかけて一度書いてみることが良い。しかしもちろん実際にはそんなことは通常は不可能でもある。可能なのは自分の知りたいことをすでに解明している研究を、「調べ学習」風に紹介する文章を書くところまでである。というのも、未知の問題を新たに解明するための手段は高校生にまず与えられていないからだ。たとえば調査や実験が可能な環境には高校生はないからだ。しかもそのために使用可能な文献は、書店で入手可能な程度の書籍に限定される。そして、必見であるような学術論文のほとんど全部は書店では売っていない。

そもそも、何を学ぶかが大体決まりきっている高等学校や中学校を選ぶこととはまったく異なり、大学を選ぶことは、何を学ぶか自体を選ぶことを中心に含んでいる。そしてこれは独断的に言っておきたいのだが、自分の学びたい大学を選ぶためには大卒レベルの能力が必要なのである。つまり、大学で学んで能力を高めることが本来の目的なのだが、その目的のためにはすでにその能力が付いていることがぜひ必要である、という何ともパラドキシカルな事になっているのである。

なぜ自分の学びたい大学を選ぶのにそこまでの能力が必要になるのかというと、つまるところ、大学というのが学ぶ側の都合で成立しているわけではないからだ。まず、「類似した分野ほど大学組織として近接している」という法則で専攻分野が配置されているわけではまったくない、という事情がある。むろん仮にその法則で配置するとしても問題が解決するわけではないが、実際には全然それ以前の話である。この理由は、ある意味では簡単である。少なからぬ場合、類似した学問分野ほど学問的対立が激しいので、共同で研究を進めていくことが困難なのである。つまり、学問が進歩するためには、類似した分野とあまり協働しないで隣接分野からの批判を遮断したほうがうまくいく、という事情がある。そのため、類似した分野どうしは、しばしば大学組織として別の学部や別のキャンパスに置かれることになるのだ。これは学ぶ側、大学を選ぶ側からすれば、ようするに「お前はどっちの味方になるの?」と迫られることなく、しかし実質的にはどっちかの陣営に付いてしまう、ということを意味する。「誰に師事したくて誰には師事したくない」という学生の希望がまったく形成されないうちに大学を選ぶと、いわば「誰を支持し誰を支持しないか」を大学組織の側に委ねた格好になってしまうのである。

もう一つ現実的な事柄を述べておくが、「卒論を誰に師事して書きたいか」という点を重視して大学を選ぶことはまったく現実的ではない。大学を選ぶほとんど決定的なはずのこの点が、実はまったく当てにできないのだ。大学では教員が突然留学したり突然異動したりすることは、あまりにもよくあることだ。また高校生がもし自力で探して良いと思うような教員がいるとすれば、それは学内では大人気でありその大学の看板とも言えるほどの教員であり、下手をすると抽選とかその他なんらかの選抜をくぐり抜けないとならない教員である可能性がきわめて濃厚である。だからその教員一人だけのためにその大学を選ぶことは推奨できない。選抜に漏れた場合や教員が異動した場合でも、なお、その大学に、ある程度の魅力が感じられるような選び方をする必要がある。だからつまりこの点からいっても、大学というのは学ぶ側の都合で成立している組織ではないということなのだ。

大学というのが学ぶ側の都合で成立しているわけではない、という以前にそもそも大学は、学問をその本分とするような組織編成になっているわけでもない。「文学部」という学部の存在がそれを表している。公務員や法曹職に就きたい者が「法学部」、教員になりたい者が「教育学部」、その他のホワイトカラーになりたいものが「経済学部・商学部」に入学し、そのどれでもない学問を一緒くたにしたものが「文学部」にほかならない。つまり、単なる残余カテゴリーというわけだ。だから、時間が経てばたとえば東大の「教養学部」のようなものが新たにできて、その区分自体を無効化していく。つまり東大の場合、文学部とは「古い学問の寄せ集め」のことにほかならず、教養学部とは「新しい学問の寄せ集め」のことにほかならなくなった。内容によって区分されているのではなく、就職レリバンスと時代の新旧のみによって区分されていた。とりわけこの「文学部」と「教養学部」の棲み分けが、前述した「類似した学問分野ほど学問的対立が激しいので、その遮断のため」に大いに役立ってしまっていたことは言うまでもない。その東大を全国の大学がモデルとして無自覚的に採用しているため、「学問の内容上の類似性」によってではなく、就職レリバンスによって大学組織を編成するという「ものの見方」が当然のように行なわれることとなった。1980年代までの「大学を内容で選ぶべきだ」というのはつまるところ「大学卒業後何になりたいかによって大学・学部を決めよ」ということに過ぎなかったわけだ。この時期まではどのみち大学生活の前半は教養部で潰れる、最後の一年間は就職活動で潰れるので、「学びたい内容を学ぶ」ための大学という見方自体、笑止千万、滑稽なものでしかなかったのだ。

そのこととも関連するが、大学を選ぶというときに「卒論を誰に師事して書くか」という点から考えようとしているこの文章自体が、そもそも「文学部」的過ぎて一般的ではない。法学部だの経済学部だの商学部では卒論など特に一般的ではないし、教育学部のそれもたいがいは形だけのものである。大学の学部生の期間を「研究者予備軍」として捉える見方が、文学部に固有のものであり文系大学生全般の平均や多数派ではまったくない。つまり卒論を「大学院進学のための前哨戦」と捉えて深刻に考えることがまったくの少数派のものである。にもかかわらず、まさに少数派であり、就職ともまったく結びつかないうえに、現政権からは今後ますます弾圧されかねないがゆえに、その立場は保護される必要があると感じる。それにこの立場は、一般学生には縁が薄いとは云え、法学部・経済学部・商学部・教育学部の教員兼研究者やその志望者学生のものでもあるのだ。

要するに、大学はそもそも学問を本位とする組織になっておらず、また、学ぶ側の都合を重視して編成されている組織でもない。言わば「学生に対して大学が何をしてくれるのだろう」と期待して入学するような所ではなく、反対に「学生が大学に何を貢献してくれるのだろう」と大学側が期待しているような所だと思ったほうがまだ実情に近い。卒論というのは学問的な貢献が期待されているはずの制度だからだ。つまり学問的に貢献していないような卒論ならば、教員の本心としては落第にしたいようなものでしかないはずだからだ。卒論を課すというのは、だから実際に期待されているのは「大学や学会への貢献」にほかならないのだ。そしてここでの貢献とは、次のようなものではない。すなわち「〇〇学はまるでつまらないので、面白くしてやろうとしてこの卒論を書きました。どうです、これで面白くなるでしょう?」というものではない。このような考えのもと研究者としての生活をしていた人々が確かに昔は多かったかもしれない。すごく多かったといっても良い。だが、今はもうこれはダメだ。「ならば、あなたが面白いと思う別の教員や分野を見つけて、そちらへ入学してください、来る場所を間違えましたね、さようなら」となるのがオチである。こういうことが許されるのは、まあ大学院に学生が進学し次代の研究者になることを最初から前提にしている東大と京大だけだと思ったほうが良いし、それらの大学の学部生にはこの文章全体が不要でもある。大学を選ぶときも、当然そのような考えの者は受け入れられないことを前提にしなくてはならない。

他にもいろいろ言及可能な論点はあるが、ともあれ総じて「誰に師事して卒論を書くか」という観点での大学選びは、高校生には絶望的に難しい。とは言え、まったく打つ手がないわけでもない。「大まかな選択前提」のリストのようなものがあれば事態はだいぶ進展する。たとえば「社会学だったら、東大か明治学院大か立教大か武蔵大か首都大・千葉大・学芸大あたりとかまあだいたいそんなあたりだよな」というような「選択前提群」の候補というものがあると良い。問題はむしろその前提から選ぶ前の段階の「そもそも社会学にするかどうか」という点のほうになる。

「〇〇学」にするか「××学」にするか、という選択を高校生が行なうことはさらに一段と絶望的に難しいし、絶対にやめた方がいい、と言いたいところがある。高校生に可能なやり方としては、ともかく何冊もの学術的著作を並べてみて、その中で相性の良い著者の分野を選ぶ、ということだ。自説の正当化の方法や語り口など、そういった事柄への相性・好き嫌いで決めて構わない。その方が良いくらいだ。そしてその著者が、別の著作の中で「自分の所属する分野」の悪口を書きまくっている人や、その中での異端児ではないことを確認しておくこと、までだ。異端児でないかどうかの確認は当人の書いたものでするより、同業者の書いた他の本でするほうが良いので、この確認にも限度はある。

高校生にできるのは、自分の関心を深めることではない。というか、「考えればわかること」に関してはいくらでも深めることが可能なのだが、たいていの場合「調べないとわからないこと」であり、そちらは高校生のうちは無理だ。だから、可能なことはむしろ「自分の関心をどのように位置づけるか」までだ。学問は多くの関心の束である。その多くの関心のなかで、自分の関心がどのような位置に位置づけられるか、そのことを解明しておくこと、これが高校生にまだしも可能な課題である。なぜ可能かと言えば、「概論書」にでも記載されている常識レベルの関心と照合すればいいからだ。そして、それをまとめたものが「調べ学習」ふうの文章にまとめられればなお良い。そのためには、相当多くの事柄を圧縮した形で高校生のための情報として提供される必要もある。当プロジェクトの今後の課題としたい。


2017-01-04 大卒レベルの文章を高校生が書くことが難しい事情

高校生が大学選び・学部学科専攻選びをするためには、「大学での卒論の予行練習」のような文章を時間を大いにかけて一度書いてみることが良い。大卒レベルに近づくことが大学選びのための有効な手段だからだ。ただし、現実的にはあらゆる事情からそれは困難である。その困難のうちの一つに絞って以下指摘しておきたい。それは「事実記述と価値評価の区別」という問題圏に関係している。

中学・高校という教育機関がこの社会で果たしている役割というものを考えてみると、わかる。中学・高校というのは、「生殖可能な未成年の男女に性交をさせない」という社会的期待に最低限応えるために存在しているのも同然なのである。そして、他の役割はあくまでこの最低限の役割を果たすことを前提にしたうえでのものである。ところが、その「男女に性交をさせない」役割は表立ってはあまり語られない。したがってそのような社会空間では、大学という社会とは異なる独特の規範的傾向が存在する。その独特の規範的傾向は「事実を直視させない」ために有効であり、したがって「卒論の予行練習」を書くためには妨害となりうるのである。それは「事実を記述すること」よりも「規範的評価を下す」ことのほうがより高く評価される、という傾向である。

さて、この傾向は二つの面で妨害的に影響しうる。一つは「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」ことになりやすくなる、という影響である。もう一つは、「事実を記述しうる性能が低い」概念を使用しがちになる、という影響である。

事実を記述したり報告したりすることは、別に価値中立的というわけではない。喩えるならばそれは、どんな映像であっても必ず特定の視点から描かれるのと同じような事態なのであり、事実記述や事実報告もまた必ず特定の立場からなされるのということなのである。つまり、その意味で事実記述は価値中立性を前提しているわけではない。とは言え、「語る」と「示す」の区別はもちろんある。「事実を“語る”」ことによって「価値観や評価を“示す”」ことは無論可能だし不可避でもあるが、だからといって、それと「価値観や評価を“語る”」こととは混同できない。つまり「事実を語る」ことと「評価を語る」こととは一定程度なら区別可能である。

また学者の研究というのは、事実に基づいて行なわれるにしても、まったく価値中立というわけでは無論ない。すなわち、認知的価値や認知的規範とでも呼べるような価値観には従っている。たとえば「知らないよりは知っているほうが良い」とか「新しい認識や珍しい認識や意外な認識には価値がある」といった価値や規範に従っていることが多い。さらにまた、認知的な価値や規範以外でも、学者の方がある種の価値観を積極的に表明することも多い。たとえば「人類皆平等」のようなタイプのヒューマニズムに依拠し、またそれを積極的に表明もするような学術的営為は決して少なくない。この場合、「知るに値すること」という認知的な価値もそのヒューマニズムの枠内でのものになりやすい。

と、そのようにして、「事実を記述する」ことと「価値評価を下す」こととは截然と二分はできないと言える。しかし同時に、それでも「事実を記述する性能」が高い表現もあれば低い表現もある、ということは言いうる。ちなみに同様のことは「事実記述/比喩表現」という対立項についても言える。すなわち、何が事実記述であり何が比喩表現かは完全に区別できるものではなく、程度問題ではあるが、それでも「事実を記述する性能」が高い表現もあればそうでないものもある、とは言いうる。たとえば、「机の脚」とか「耳を澄ます」という表現は「事実を記述する性能」が決して低いとは言えない表現であるが、だからといって「これらは比喩表現でない」と簡単に言い切れまではしないだろう。ともかくこのように、「事実を記述する」ということは、一般に、対立項と明確に区別しきれるものではないが、かと言ってその性能の高低を論じることは充分可能であるということは言えるのだ。それに比べて「事実を記述すること」を何かの対立項と対比して識別すること自体は、さほど有意義とは思えないのである。

たとえば次のようなことを考えてみても良い。「美人」という語は「事実を記述しうる性能が低い」語だろうか。いっけんすると「美人」というのは「事実を記述する」語ではなく「評価を下す」語のように思える。しかし事態はそう単純ではない。「美人」というのは「多くの人が美人であると評価を下しがちな女性のことで(は)ある」という「事実記述」に似た文でもって規定することのできる概念だとも言えるからだ。このように考えると、いっけん「評価を下す」語であっても事実記述の性能が低いとは言い切れず、むしろ「多くの人がそう評価するかどうかがある程度一致するかどうか」こそが重要であることになり、語が事実記述の語か評価判定の語であるかは必ずしも重要ではないことになる。要はその語の使い方・適用する対象や文脈の、多くの人々の間のある程度の一致こそが重要であることになる。

それに関連して次の点も併せて押さえておくべきだろう。典型的には指示詞のような語の用法である。「これ」とか「あなた」という語は、「多くの人が“これ”と呼ぶもの」「多くの人が“あなた”と呼ぶもの」のことを指す語では、ない。これらはその都度の状況―たとえばそのときの送り手と受け手が誰なのか―によって、指す対象がいちいち変わるような語なのである。そのような性質は、「おいしい」といった語にもある程度あてはまる。この点は西阪仰『相互行為分析という視点』(1997)でも指摘されている。それを踏まえると次のように言えるだろう。「おいしい」の用法としては、「多くの人がおいしいと呼ぶような対象の味覚的性質」を指す用法もある。これだけなら他のたいていの語と同じである。しかし、それと同時に、「誰が何と言おうと自分がおいしいと思うという味覚体験」を指す用法もまたあるのである。

さて一つめの、「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」ことになりやすくなる、とはこうである。たとえば次のよう。学術論文に似たような文章を書くためには、「普通なら××なのに、この場合は○○だ。どうなっているのだろう?」というような問題意識をもつと良い、と言える。というのは、そこには問うということの理由、問題を解明するということの理由があるからだ。つまりそれは「意外な状態が成立しているから」だ。もし意外な状態が成立していないのなら、仮にその理由は未知であっても論文にする理由としては弱い。未知の問いを解明することなどは当然すぎる理由でありそれだけでは論文にする理由としては弱いからだ。すなわち、未知でもあり意外な結果になっている事態だからこそ論文にする理由・研究する理由というものがあり、正当性があるのだ。

さて、そこで「普通なら××なのに」の箇所が問題となる。ここで「学知として蓄積された真理・法則等と日常的真理および諸事実に基づいて、普通に予測すれば××なのに」ということがすんなり主張できるのなら良い。そうするとたとえば次のようになる。「普通に考えて殺人は無くならない。なぜなら殺人を望む人間が一人いれば、他の全員が殺人に反対していても、殺人は成立することが可能だからだ。ところがМという条件では殺人が起こらない。これは意外である。どのようにして殺人が起こらないという結果になっているのだろうか?」…と、こうである。ところがここで「普通なら××なのに」の箇所に事実を度外視した「希望的観測」を入れてしまう、ということが起こりうる。するとたとえば「普通なら殺人など好ましくないのに、殺人は無くならない。いったいなぜだろう」といった問い方になる。

同じようにして「普通なら戦争など好ましくないのに、戦争は無くならない。なぜだろう」とか「普通なら学力低下など好ましくないのに、学力低下が起こっているらしい。なぜだろう」といった問い方ができる。しかしながら、こういったタイプの問いはあまり学術的とは言えないだろう。つまり「大学選びのために高校生のうちに卒論の予行練習的な文章を書く」ときにはあまり適した問い方にならない。ここにあるのは「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」傾向である。そして、そのような傾向を高等学校までの教育機関は促進しやすい、ということが言えるのだ。その促進しやすさの理由は、とりわけ中学・高校といった教育機関が存在しているもっとも切実な意義から教師も関係者も目を背けており、その態度に生徒が影響されてしまうからだ、とでもまとめられるだろう。

ただし次のようなことは言える。こうだ。普通なら殺人や戦争や学力低下は放っておけば起こってもおかしくないのであり、その発生の原因を問うことに学術的意義が特にあるわけではない。がしかし、発生の仕方や経路・経緯が普通ではない、ということがありうる。たとえば、普通の殺人はAという条件で起こりやすいのに、この殺人はAという条件とむしろ相反するBという条件で起こった、それはなぜだろう、どのようにしてだろう、という問いが立てられうる。同様に、戦争でも学力低下でも問うことができる。すなわち、普通に事実に基づいて予想・想定することのできないような、意外な戦争の起こり方や意外な学力低下の仕方が観察できるのであれば、それは学術的研究・学術論文の対象に正当な仕方でなることができるのだ。

ところで「普通なら××なのに」という箇所や、論文の最低限の要件である「解明対象が未知であること」が大学教員と高校生とで、しかるべく異なっているということもありうることだ。たとえば学力低下について研究したいとする。そのとき、「現在高校生の学力」に関しては高校生のほうはさほど未知ではないかも知れないが、年輩の大学教員にとっては大いに未知であることが多い。それに対して「40年前の高校生の学力」に関しては高校生にとってはまったく未知であるのに対して、年輩の大学教員にとってはさほど未知ではない。そうであると、高校生が「高校生の学力の経年変化」のようなことを調査したいというときの知りたいと思う重点が、年輩の大学教員と全く異なっている、ということになりうるわけだ。つまり高校生が学力低下について調査するときにも、「自分の知りたいこと」を二の次にして「大学教員が知りたいこと」を優先してしまう可能性が大いにある。同様にして「普通なら××なのに」という箇所も、たとえば大学教員にとっての「普通なら備えているはずの学力」と、高校生にとっての「普通なら備えているはずの学力」とでは大いに異なっている可能性がある。そのためたとえば「高校二年生のときに一学年上の全国模試を受けてトップ順位を獲得した」という事例に対して、大学教員のほうは「まあそんなこともあるよね」という態度であるのに対して、高校生のほうは非常に驚きや意外性を感じて、その水準の学力の解明を研究テーマにしてしまうということが起こりうる。

さてもう一つの「事実を記述しうる性能が低い」概念を使用しがちになる、というのは、たとえばこうである。この種の事態はきわめて多様なケースがあると思うが、ここでは「専門家である大学の研究者」と「高校生および高校の教員」との間にギャップが生じやすいタイプの一例を挙げておく。

たとえば「知識」という語について概観する。或る語が、一方では普通の人に日常的に使われてもいるが、他方では専門家によって専門用語として独自の用法で使われている…と、そういうことはいくらでもある。「知識」という語もそうなのだが、その中でもやや特殊である。心理学者や哲学者といった専門家が「知識」という語を使うときはどちらかと言えばそれは「ほめ言葉」であるのに対して、他の多くの人々が「知識」という語を使うときはどちらかと言えばそれは「けなし言葉」である。のみならず、こうである。そもそも先の専門家が「知識」という語で指す対象と、それ以外の一般人が「知識」という語で指す対象自体も、同じ対象を指しているとは言えない。一般人は「知識」という語を、たとえば「理解」や「思考」や「洞察」と対立的に用い、「知識だけある」状態をどちらかと言えば否定的に評価する。そしてこの場合の「知識」というのは、人間の外にある情報化されたものを指すことが多い。それに対して、先の専門家が「知識」という語を使うときは、むしろその「理解」や「洞察」などを指すことが多いのだ。だから「知識のある」状態をどちらかと言えば肯定的に評価する。またそこで指されている対象は、人間の外にある情報化されたものを取り込んだ後の人間の側の状態のほうである。つまり、「知識」という語は、皆が同じ対象を指しているとは限らないという点で事実を記述する性能がやや落ちるうえに、その語によって下されている「評価」も正反対でありうる、という語なのだ。

だから「知識」という語の用法をめぐっては、ある種の専門家とその他の一般人とではギャップが生じている。一般人が「知識だけあってもダメなんだよね」と言う時に、専門家のほうでは「いや、それって“真の知識”じゃないからさ」と思っていたりする。あるいはまた、高校生や高校教員が、教科学習での「理解」や「思考」や「洞察」について知りたいと思ったときに、大学教員の書いた書籍の中で「知識」の語をタイトルやキーワードに含むような本を候補から外したりするわけだ。このようにしてギャップが現実化する。

このギャップの根源にあるのはおそらくこうだ。通常の人の「知識」概念はつまるところ、「少なくとも学校で教わることは知識である」というものだ。それに対して哲学や心理学等の云う「知識」はむしろ「少なくとも自分で獲得してその結果気づいたり血肉化したことは知識である」というものだ。だから、小学・中学・高校といった教育機関が前者のほうの用法を手放すとは思えない。「知識」という語の通常用法から「教わる」という手続きとの関連が消えることはありえない。つまりある種の受動性が消えることはありえない。通常用法では知識とは誰かから与えられるものであり受動的に得られるものなのだ。と同時に、学力テストでは「教わったことを機械的に書けば正解になる出題」と「それ以上の応用や活用を求める出題」という区分もあり、勤勉の大切さを教えることが学校の役割の一つである以上、前者の出題がテストから消えることはありえない。かくして、前者の出題を解くのに必要なものが「知識」、後者の出題を解くのに必要なものは「理解」「思考」「洞察」である、といった区分が自然に作られ維持される。この区分は学力試験の分類の仕方に依存しているものなのだ。だから小中高では「知識」という語が、哲学や心理学等と同じ用法で使われることはありえない。そして、そのような教育機関を経て、その他の学問を学んだ者もまたたいがいはその用法を成人以降も使うから、やはり哲学や心理学等の用法に従って使うことはめったにないはずだ。だから社会全体で見たときも知識という語はやはり学校教育や試験制度と連動したような形での用法が使われ続けることになる。

これだけならまだ、「知識」という語の二つの用法が棲み分けているというだけの話だが、そこで話は終わらない。通常用法での「知識」は「理解」や「思考」あるいは「常識」などの対立項として使われているのであるが、その区別自体が恣意的であるからだ。たとえばこう。「Aさんはクラシック音楽の知識があるだけなのに対して、Bさんはクラシック音楽に深い理解がある」という文を見たときに、ここでの「知識」や「理解」が「事実を記述」した語であるとシンプルに感じる者はまさかいないだろう。もし仮に事実に基づいたうえでの記述であったにしても、むしろこれらの語は「評価を示した」度合いの高いものでもあるのだ。しかもこれは、たとえばクラシックの専門家なら誰がやっても同じように記述する、ということが言えるわけでもない。条件が同じような人間が記述してもそこに大いに幅や相違があるようなものが「事実を記述しうる性能が高い」語であるとは思えないだろう。

大学生向きのものも含めた「文章の書き方」といった文章のなかで、「事実と意見・感想を書き分けよ」といったタイプの提言は頻出のものである。しかし、それを実行したらどのようになるのかを真剣に想定したうえでの提言は皆無である。上記のたんなる一例もまた、そういった提言が想定していないはずのものとして挙げた。のみならず、そういった提言での「事実」「意見」「感想」といった語にもまた、上掲のケースはおおむねそのまま妥当するのだ。ちなみに中学校あたりで行なわれている「事実と意見・感想を書き分けよ」といったタイプの教育は、しかるべき専門家のチェックの入らないトンデモ教育の温床になっている可能性が高い。そのことも付記しておく。

高等学校までの教育機関が、「事実を記述する」よりも「評価を下す」ことに重きをおいていることが、このような事情に基盤にある。そのため「大学での研究者が書くような文章の予行練習としての卒論のような文章」を高校生のうちに書くことに対しては、高校などの教育機関はむしろ妨害的に影響しやすいと述べた。中学・高校といった教育機関の存在する大前提となっている事情から目を背け、事実を直視しない態度が教育機関全体の態度となっていることもその大きな要因である。またそれと連動していることだが、研究者のうち大学の教員になれなかった者がやむをえず高等学校までの教員になる、というルートがほとんど存在しないこともまた、その大きな要因である。高等学校までの教育内容それ自体が、大学での学問のあり方と切り離され、そのための準備期間になっているとは言い難いわけである。そしてその事を重視している人もまたきわめて稀なのである。

なお、いちいち書くのは煩雑なので今さら詳論する気は無いが「事実と意見・感想を書き分けよ」という方針を打ち出す際に、木下是雄、戸田山和久、飯間浩明の当該テーマの著作はまったく考えが足りない著作であることを付記しておく。また宇佐美寛の著作での議論の欠点(「語る」と「示す」の混同)に関しては、改良した提案をすでに上記の文章中でしておいた。

今はここまで。


2016-12-10


2016-12-08 早押しクイズと準拠集団

日本には、一定以上の自然災害リスクが多種類、半ば恒久的にあり、各地域に広く分布しています。そのため、「社会的階層の高い者が住みがちである自然災害リスクの少ない地域/社会的階層の高くない者が住みがちである自然災害リスクの少なくない地域」というふうに国土が分かれています。自然災害リスクを決定的に克服できる段階に人類の科学技術のレベルがまだ達していないため、この社会的階層の棲み分けや格差は、世代を超えて固定されていきます。

また、それに応じて、人災リスクの高い設備もまた自然災害リスクに応じて配置されていくことも起こります。たとえば地震・津波のリスクの大きい土地に原発が配置されがちなのは、決して偶然ではなく、地震・津波のリスクの少ない土地に住む社会的階層の高い人々の近傍に原発を設置することなどありえないからだ、という事情もあるわけです。もちろん原発と米軍基地のように、ともに人災リスクが高いがしかし両方を近接させることなどありえない、というようなタイプの関係もありうるわけであり、事態は単純ではありません。

さて、社会的階層が空間的に棲み分けられているため、棲み分けられているというその事態はなかなか空間的に目に入ってきません。高偏差値者の周囲には高偏差値者が多いことが多く、高卒者の周囲には高卒者が多い、というような関係が日本全体にまんべんなく成立しています。そのため、自分の周囲の似たような相手との比較による社会的判断を行ないがちになります。

たとえば、高校での学力が高くても自分の親族や同級生が高卒ばかりだと「大学に進学しよう」という積極的な動機をもたないため大学に進学しない、ということが起こります。その真逆ももちろん多く、自分の親族や周囲が高偏差値者だらけなので、高校での劣等生であっても「自分はやればできる」と思い込んで、短期間の猛勉強でしかるべき大学に進学したりする、ことがあります。

このような社会的判断をする際に準拠している集団のことを、準拠集団と呼ぶことがあります。集団と言っても地理空間的に、あるいは電子空間的に、一ヶ所に固まった集団である必要はまったくありません。世界中に、あるいはインターネット上に少しずつ散らばっていたりしても良いわけです。ただし集団の成員どうしがお互いに可視的であることからは独特の影響が生じえ、その影響が重要なときもあります。なので、相互に可視的であるような準拠集団もあれば、もっと捉えどころがないけど影響は受けているというような準拠集団もある、とまとめることができます。


準拠集団について考えるための効果的な話題の一例として、早押しクイズを取り上げてみます。早押しクイズというのは、一見すると反射神経を競っている競技のようにも思えますが実はそう単純でもない、ということを、以下言おうとしています。

早押しという名前なので「いかに早く押すか」を競っているように聞こえるわけです。ですが、実際には「いかに必要最小限の量だけ出題文を聞いて答えるか」を競っているわけです。「単に最小限の量」を競うのなら早さを競っているのとほぼ同じになります。ですが「必要」最小限を競っているのであるからして、「早ければ早いほど良い」とはなりません。「必要なだけ」出題文を聞く必要もあります。つまり「適度に遅く押す」ことが求められる局面もまたあります。

ともかく出題文の全部を聞かないで回答するというのが通常であるような競技です。ですから出題文を全部知った上で回答する筆記試験のようなものとは、求められているものがいくぶん違います。すなわち、出題文を全部知った上で回答する筆記試験ができるのは当然であり、その上で何が必要になっているのか、を解明しなくては早押しクイズはわかりません。

早押しクイズの「全盛期」(1990年代前半)のテレビ番組映像をある程度見ていると、だいたいわかってきます。「全盛期」の早押しクイズでは実質的に次の二つを競っています。

  1. 「Aという質問の答がXであることを知っている」
  2. 「『答がXであるような出題文A』が存在することを知っている」
以上の二つです。後者について述べます。

一般的なクイズや試験では前者の知識があれば一応良いとされています。ただし一般的な試験ですら時間制限があったりするので、実際には後者の知識がある方が有利です。まして、出題文自体を当てるという早押しクイズにおいては、後者の知識があることがとりわけ決定的に有利になります。そのことはしばしば見落とされています。見落とされている理由の一つは、早押しクイズでも「X」だけを回答させるため、「Aの存在」を知っているかどうかが検証されないからです。しかしもし早押しクイズで「X」の代りに「A」を答えさせれば、「X」を回答できる者ならだいたい「A」も回答できるはずだろう、という推測は容易です。

例を挙げます。「11月3日の天気は晴れが多いなど、ある気象条件が偶然とは考えられない確率で起こる日を何と言う?」という出題文があったとします(実際あった)。これを「11月3日の天気は晴れがお」くらいまで聞いて、早押しし正解できたクイズマニアがいたとします(実際いた)。今見れる動画だとRECO0012の5分34秒~40秒くらいの箇所です。さてこの回答者は、出題文の全文を知ってそれに対して「特異日」と回答することはもちろんできるわけです。ですがそれだけでなく、そもそもこの出題文自体をあらかじめ知識として知っていた、と判断できます。つまり、事前にクイズに備えて準備しているときにすでにこのような出題文を学習し練習しただろう、と判断できます。「11月3日の天気は晴れが多いなど、ある気象条件が偶然とは考えられない確率で起こる日を何と言う?」と聞かれて「特異日」と回答できることに加えて「“M月N日の天気は晴れが多いなど、ある気象条件が偶然とは考えられない確率で起こる日を何と言う?”という出題文が存在する(出題されうる)という知識」も持っていたように思えるわけです。

そうでなければこのタイミングで押すことはできません。そう言いたくなります。

比喩で言えばこんな感じです。通常の学校優等生・受験優等生というのは、「問題集に載っている問題ならどんな問題でも解ける」という人であるとします。それに対して、クイズマニアというのは言わば「それもできるし、それに加えて、問題集に載っている問題ならどんな出題文でも全部覚えているし全部答えることができる」という知識をも備えているのも同然なわけです。早押しクイズというのが、「出題文自体を当てる」ことを前提にしている競技である以上、それは当然のことだとも言えます。

もう一つだけ述べておきます。「Aという質問の答がXである」という出題文の難易度と、「Aという出題文を当てて、早押しする」という早押しの難易度とは全然一致しません。むしろ出題文に回答するのが容易であるようなものほど、早押しで出題されたときには難易度が高いことすら多いと言えます。というのは、易しい出題、ありふれた出題の場合、「何が正解になるか」からして不定である、ということが言えるからです。たとえば「XであるYはZである」という関係から、Xを問う出題も、YやZを問う出題も作れます。あるいは「XであるYはZですが、ではX´であるY´は何でしょう?」という出題も作れます。なので、易しい知識・ありふれた知識を問うように見える出題は早押しクイズとしては「押すのが早すぎてはいけない」出題になることが多く、結果的に難易度が高いほうの出題になりやすいのです。

さてここまでだと「準拠集団」の話題と関係ありませんが、実はここからが大いに関連してくる論点になります。

それは「早押しクイズの出題文は有限であり、その“全部”を学習することが不可能ではない」というものです。次に示します。

自身が早押しを含むクイズマニアである長戸勇人氏は著書『クイズは創造力<理論編>』(情報センター,1990)で、早押しクイズを百人一首になぞらえました。すなわち、百人一首という競技は全部の句を即座に想起できるだけではおそらく不十分であり、「“きみがため”で始まる句は二つある」とか「“む”で始まる句は一つしかない」というふうに、記憶対象の全体に照準した知識もまた、勝つためには有用・不可欠である、―というわけです。

これと同じ判断ができるようになることは早押しクイズでも有用・不可欠になります。さて、一見すると早押しクイズの出題文は無限にありうるように思えます。そのため「〇〇という出題文は一通りしかない」とか「××を問う出題文は存在しない」という「知識」は成立不可能のようにも思えます。しかし実はそうでもないのです。「Aという出題文によく似た出題文A´やA´´が存在する」とか「Xを問う出題文は出ない」とか、そういう知識も案外可能であることが多いのです。つまり、出題文と正解の組み合わせが有限であるかのように、クイズマニアは振る舞うことができるのです。なぜでしょうか。

二つの要因があります。一つは、早押しクイズの回答者と出題者とは同じタイプの人であるということがあります。実際かつてクイズマニアで回答者としても有名だった者が後に出題者の側になることもあります。そしてもう一つこちらのほうが一層重要なのですが、早押しクイズというのは、「早押しクイズのマニアが解ける問題が解けるようになること」しか対策が無いため、「早押しクイズのマニアが知っている知識」を学習することができる者しか有用な対策が取れないのです。つまり、早押しクイズに強い者というのは「早押しクイズに強い者が知っている事柄を知っている」者だということになるのです。

先の長戸氏の著書でも紹介されています。クイズマニアたちは定期的に集会を開き、その中でいろいろなゲームを行ないます。そのなかの一つに「いちばん多くの正解者を出したクイズを考案した者が勝ち」というゲームもあります。この種のゲームによって「クイズマニアの知っている知識」というものがクイズマニアの間で可視化されます。そこから「クイズマニアの知っていそうな知識」という予想もしやすくなります。クイズマニアの知っていそうな知識を問う出題文を出題文ごと記憶することが、結局は早押しクイズ対策になるわけです。そのためには「クイズマニアの知っていそうな知識」という予想が立てられることが有用であり、それは「クイズマニアの集団」という準拠集団を想定できるようになることと等価なわけです。特にテレビなどの早押しクイズの場合、出題者もまたこの準拠集団の一員なので二重に有用なのです。

早押しクイズの出題文はいっけん無限のように思えるわけですが、それは「クイズマニアという準拠集団」を持たないからなのであって、そういう想定ができる者にとっては違うわけです。「こんな出題、マニアは誰も解けない」「この出題だとマニアの正解率は〇〇%くらいだろう」という判断・予想がマニア同志ではできるわけです。そのため、早押しクイズ対策としてとられる事前の準備学習も「マニアが知っていそうな知識」に絞ることができるわけです。そのため出題範囲も実は有限と言っても良く、したがって「〇〇という出題文は出ない」とか「Xを問う出題文に似た出題文は三通りある」などのメタ認識すらも可能になるわけです。

ちなみに特に最近のテレビ番組での早押しクイズはあまりこのような資質を求められていないように見受けられます。つまりもっと出題のレベルを落として、多くの回答者が一斉に早押しをするように仕向けているように見えます。そのようにすると誰が勝つか事前の予想がつきにくくなるからでしょう。実際、「全盛期」のような早押しクイズを続けていると次第にメンバーが固定化し、誰が勝つかも大体は予想がついてしまい、視聴者に飽きられてしまうものです。なのでここ20年くらいはクイズマニアが出場するクイズ番組自体ほとんど無く、「博識な芸能人」によるある程度レベルを下げた早押しクイズが多く見られるようになりました。そう言ってもいいと思います。

今はここまで。


2016-12-04 聴解が難しい『ニンニンジャー』の難点

以下の文章は約一年強前に私が書いた文章をあまり直さずに掲載したものです。掲載する理由の半分は、「自分が書いたという事を完全に忘れていたから」というものです。役立つ内容も含まれているので今後「忘れないために」というわけです。

注意した方が良いのは私が視聴したDVDの性質です。この番組のDVDには、番組の全体をきちんと収録したもののほかに、一部の場面だけを省略して番組の2/3程度の分量に抑えたうえで、先行的に販売されたDVDもあります。私が視聴したDVDはおそらく後者なので、番組全体への「合理性」の評価が妥当なものかは疑問の余地があります。つまり、以下の主張は実際に放映されたものよりも中途半端に限定された内容に基づいた判断に依拠しているかもしれない、ということをあらかじめお断りしておきます。

なお「合理性」「合理的」という語は、「経済合理性」「経済合理的」の意味内容に限定して使う人も世の中に多いわけですが、つまり「無駄を省いて」の意味に限定して使う人も多いわけですが、以下の文章ではそれとは違う用法です。すなわち「合理的」→「理にかなった理解が可能である」、「合理性」→「理にかなった理解が可能であるという性質」、という用法で書いています。


『ニンニンジャー』が「教材」として使うにはいささか難がある、という話から入りましょう。2015年現在、テレビ朝日系列局で放映されている『手裏剣戦隊ニンニンジャー』を私は途中回から見始めました。最初の印象は、「教材」に使えそうな番組である、というものでした。いやそれどころか、教材であることを意図して制作された番組なのでは、という感じすら受けました。ですが、このたび発売されたばかりのDVDを視聴して初期の回を視聴して、その印象は撤回したほうが良いのでは、と思うようになりました。この番組の制作者が、何らかの形で「小学校英語の義務化」への対応といったことを考えていることは、疑いえないと思います。つまり早期英語教育によって日本語力が破壊されないように、よりいっそう高度な日本語力を小学校にあがる以前の幼児期のうちに形成しよう、というわけです。ですが、その意図は「教材として使うことのできる番組」という形としては結実しなかった、ということになると思います。

この番組の第一印象が「教材として使えそう」というものだったのは、小学校高学年以上を明らかに想定しているだろう程度にはせりふが難しいものだったからです。そして、難しい語彙や定型的なフレーズを、適切な文脈とともに「習得」するのが、日本語上達の早道だからだと思うからです。それならば、番組を視聴してそのせりふのディクテーションを行なうことで、日本語の教材になるのではないか、と思えたのです。では、なぜその後の印象が「教材としては難あり」に変化したのでしょうか。それは登場人物の行動が合理性を欠いているように思えたことによるものです。いや、もっと言うと、脚本を書いている人の思考も合理性を欠いているようにすら思えるのです。登場人物にも脚本にも合理性がどこか欠落している、となると、それは「適切な文脈」を提示することになりません。「適切な文脈」が不足したまま「難しいせりふ」だけが飛び交う番組が「教材」になるとは私には思えないのです。

まずは、この番組のセリフの語句レベルの難しさを、分類して提示してみましょう。

グループA:古語と「専門用語」
「末裔」「やいば」「娑婆」「推参」「小姓」「三下」「支配せんとする」「あやつら」「わらわ」「戦場(いくさば)」等々
グループB:同音異義語がある漢字語等
「仮定(の話)」「実戦」「称号」「退いてください(ひいてください)」「単調」「視界」「(宇宙人と)交信」
グループC:馴染みの薄い漢字語
「阻止」「異変」「経験」「風情」「毒舌」「変化(へんげ)」「召喚(の術)」「潜入」「遭遇」「瞬殺」「反面教師」「援護」「存在価値」「人畜無害」「折衷案」「不穏」「幻影」「月面」「金輪際」「我流」「ご名答」
グループD 馴染みの薄い和語・定型句
「生まれてこのかた」「おこがましい」「科学の粋を集めた」「侮る」「足止め」「手合せ」「言いたげ」「今一度」「ぶれない」「ちまちました」「仕留め損なう」「死に急ぐ」「相見える(あいまみえる)」「バランスがとれた」「引き立て合う」「張り込み」「仕込み」「諦めが悪い」「見切る」「受けて立つ」「よいしょ(おだてること)」「手玉に取る」「というと何か、○○ならばいいというわけか?」「兄が兄なら妹も妹だ」「○○これに極まれりです」

また、登場人物の一人の口癖で「easyだな」というものがあります。複数回にわたって観察するかぎり、この言い回しは多くの場合は「安直だな」と否定的な評価を下すときに使われていますが、「容易(な課題)だな」というふうな肯定的・前向きな気分を表わすときにも使われていることがときどきあります。この使い分けも、子供にとって難しいだろうものの一つです。意味内容が正反対なのに同じような語調で言われるからであり、またもちろん「英単語」だからでもあります。

で、このくらい難しくても、内容が合理性の高いものであれば良いのですが、そうとも言い切れないところに、問題があります。

第一話で、主人公の一族の管理下にある「道場」が、謎の集団によって襲撃され、破壊されます。主人公がそのとき謎の集団に攻撃され応戦するところから、物語は始まります。ところが、その出来事が、その後現れる登場人物に適切に共有されていきません。主人公の父親(おそらく道場の管理者)は、破壊された道場を見ても何も言いません。主人公と再会した妹は、道場を破壊したのは兄だと勝手に思い込み、しかしそのことを主人公の父親に訴えたりなどもしません。そして、その後主人公の父親が、古来からの因縁のある凶悪な集団の存在について語るのですが、道場が破壊されたこととほとんど関連づけることなく語ります。凶悪な集団が存在することを熱心に主張するわりには、目の前の道場の惨状に無関心である、という奇妙な行動をとります。

この件に代表されるような、登場人物の非合理性、あるいは脚本の非合理性というものは、おそらく視聴層として想定されている「かなり幼い子供」が突っ込みながら見ることができるように、という配慮なのでしょう。視聴者である子供が「この人の言っていることはおかしいよ」とか言いながらも熱心に見入ることができるように、ということなのでしょう。そのためには、登場人物が適度に「愚かな」行動をとってくれないと、というわけなのでしょう。しかし、そのためには「この人の言っていることは間違っていた」という結論に最終的に着地することが必要になります。しかし実際には子供の突っ込みを誘いかねない愚行が、「結局間違っていた」というふうに着地しないことがけっこう見受けられる気がするのです(この件についてもそうでした)。そうであるならば、単に脚本が非合理である、あるいは少なくともそう受け取られることへの配慮を欠いている、ということに過ぎません。そうである場合、その番組内容は全体として「難解」になってしまいます。

「かなり幼い子供」から見たときに「愚かな行動をとることがある」登場人物と、「ほとんど判断を間違えず愚行もしない」登場人物とがいる、というふうにこの番組は進んでいきます。前者に視聴者である幼児は感情移入や突っ込みをしながら見、かつ、後者を幼児は理想化しながら見る、という図が番組制作側には考えられているのかもしれません。


と、こんな内容を書いたことなどすっかり忘れていました。私が子供の頃の幼児向け番組に比べればおそらく数倍は「理解可能性」が上昇しているはずのこの番組にややきつ目の評価を下したように思い、忸怩たるものがあります。まあしかし、昔に比べて理解しやすい番組を作る技術やノウハウも向上している反面、考慮すべき制約の種類も時代の変化に伴って増えて、結局相殺し合って、シンプルにわかりやすい番組を作ることは相変わらず困難であるのかもしれません。

筆者は子供の頃、幼児向け番組も学校の授業も日常会話も、大半が馬耳東風であるという「聴解力」の低い子供であったので、このような問題意識がどこかにあったのです。学力は、授業ではなくもっぱら「文字の教材」でつきましたし、日本語力も「文字の本」でつきました。そういう子供だった者ならではの提言と思っていただけるとありがたいです。


2016-11-25 大学を選ぶ前に経験を積んでおいた方が良い事柄

「ほんとうにそうなのか?」を考えてみる

大学院履修経験者の書いた本を読む。そのとき「ほんとうにそうか?」という問いをいつでも発動できるようにしておきながら読む。

「ほんとうにそうなのか?―というのも、自分の知っているケースには当てはまらないのだが。」「ほんとうにそうなのか?―というのも、そうではないケースが簡単に想定できるのだが。」など反例を思い浮かべる。自分が反例になるか考えてみる。

「ほんとうにそうなのか?―というのも、そうだとするとAという結果になっている理由がわからないのだが。」主張から帰結しないような結果になっている場合を想定してみる。自分の周囲などで起こっていることをその結果であると仮定してみて、主張がその結果の理由になりうるかどうかを検討してみる。

「ほんとうにそうなのか?―というのも他の箇所で著者が言っている事柄とつじつまが合わないのではないか?」著者自身の複数の主張を突き合わせて整合するかどうか、両立するかどうか、を検討してみる。あるいは、他の著者や身の周りの人の言っている事柄と両立するかどうか比較検討してみる。

「ほんとうにそうなのか?」という以前に「何が書いてあるかわからない」という場合への対処はケースバイケースになる。著者の責任である場合もあれば読者の力不足のせいである場合もあるし、たんなる相性が悪い場合もある。その箇所は保留しておいた方が良いかもしれない。

「ほんとうにそうだというのは、まあいい。で、だから何?」という感情が起こるときは、検討してみる。「なぜそんなことを主張するのかがわからない」「そんなことを主張する目的や意義がわからない」というときは、そのわからないという感覚を言葉にしてみる。

「ほんとうにそうなのか?」という疑問を特に感じない場合は、次の項に進む。

「なぜそう言えるのか?」を考えてみる

大学院履修経験者の書いた本を読んでいて驚きを感じる箇所があるかもしれない。「Bである。」これに対して「Bであることに特に疑いはない。で、なぜそう言えるのだろう?」という感じ方をする場合は、この驚きを言葉にしてみる。

「普通に考えるとAになると思える。しかし実際にはBだ。Bであることに特に疑いは無い。しかし意外だ。なぜBになるのだろう?なぜBになると言えるのだろう?」とこのように考えると良いかもしれない。「なぜBになるのか?」と問うと、高校生には手に負えない場合がほとんどだろう。なので、「なぜBになると言えるのか?」と問い直すことで、少し手に負える形にしてみるのだ。この形だと自分に引き付けて考えることがしやすくなると思えるのだ。

この「なぜ」にはさまざまな事柄がありうる。原因や因果関係、メカニズムや構造、根拠や真理、定義、背景や経緯、いろいろある。「すべての事柄に共通する汎用性の高い原因」だったりすれば「なるほど!」と思えることもあるかもしれないし「当たり前じゃないか!」としか思えないこともある。背景や経緯の場合、「あれがこうなって、だからそうなって、だからこうなってああなってそうなった」みたいな説明になる。説明になっていないように思えるかも知れないが、こういう細かい事実関係を解明するのも学問の仕事である。たとえば「高校までの歴史科」などはこういうふうな説明になっていることだろう。

「普通に考えるとAになると思える。しかし実際にはBだ。」というふうに「普通」と引き比べておくことは重要だ。というのも、「なぜBなのだろう?」に対する研究結果を世の中に発表して良い理由を与えるのが、この「普通とのギャップ」だからである。

学問の場合、「なぜその研究発表をするのか?」の答として「新発見だからです。」というだけでは理由として弱い、と受け取られることがある。「新発見であることは当たり前の前提であり、新発見でない学問的発表など許されない」というわけだ。そのとき、それに加えて「で、しかも普通から予想される結果と違うんです」となれば、その意外性自体が研究発表の理由になる。だから、この「普通に考えるとAになると思える」という事項を研究者が事前に考えておくことは重要である。高校生が研究者の書いたものを受け取るときにも、その点を理解しておくのが良い。

問題はこの「普通」である。「普通の高校生の普通」と大学院修了者のしかも特定分野の専門家の考える「普通」とは大いに違っていることが多い。しかし、高校生のうちに「研究者の考える普通」を想定することは無理があるので、ともかく「普通の高校生の考える普通」で構わない。というか、それしか可能ではない。ただし「高校生の考える普通」が何かの「事実」の主張に基づいている場合は、その「その事実はほんとうに事実か」と検討することが可能かもしれない。

「なぜBになると言えるのか?」の理由は「これこれの理由でBになるから。」であり、「なぜBになると発表して良いのか」の理由は「ふつうに考えたらAになるはずなので、意外性があるから。」である。この二つは混同しないこと。

今はここまで。


2016-10-23

文自体の理解についてまず分類

文の理解について考えるときに、文自体だけを単独で考える流儀と、「文+状況」の全体を考える流儀とがある。今回は前者をやっておく。

文の理解可能性に関して「同定可能性」と、同定を前提にした「理解可能性」とを両方考慮して分類してみる。

この場合の同定とは、音声言語の場合はまずとにかく聞き取れること、そしてたとえば単語の切れ目や同音異義語が聞き取れることのレベルまでを指す。たとえば「にわにわにわにわとりがいる」という音声言語に対して「庭には二羽ニワトリがいる。」というふうに即時に文字化することは同定と呼ぶことにする。あるいは「にわにわたなべがいる」という音声言語に対して「庭に渡辺がいる。」なのか「庭には田辺がいる。」なのかを状況に応じて正確に即時に文字化できることは同定と呼ぶことにする。ただしここでは文の外側にある状況のことは考慮しないことにしているので、先行する文のみを考慮してどちらかに決めることを同定と見なす。なお、音声言語には句読点がいっさい無いので、句読点も含めて文字化できることも同定と本来見なしたいところである。しかしこの操作は文法構造の理解と分かちがたくつながっているので、同定を前提にしたより高度な理解の側に、この考察では入れておくことにする。

文字言語(活字)の場合は、発音を知らない漢字が無いことは同定できていることの一部であることにしておく。また、漢字や片仮名で表記可能な要素がひらがなで書かれている場合、それを可能な表記に置き換えることができる状態であることも同定と見なす。たとえば、「人気がない。」という文を「にんきがない」なのかそれとも「ひとけがない」なのかを、状況に応じて正確に発音できることは同定と見なす。ただしここでは文の外側にある状況のことは考慮しないことにしているので、先行する文のみを考慮してどちらかに決めることを同定と見なす。あるいは「障がい者」と書かれた文字を「しょうがいしゃ」と発音できること、および「障碍者」等の表記が可能であるとわかること、の二つは同定と見なす。

同定できたうえで、さらに文自体が理解できた、という状況をこの段階で考えることができる。ただ、理解というのは0か1かというものではなく、浅い理解もあれば深い理解もあるというほうが実情にかなっているだろう。よってここでは「特に理解できないことは無い」程度の状態を「理解した」と呼ぶことにしておく。文を取り囲む状況についてはどのみち考慮していないのだから、文自体の理解といってもある程度限度のあるものにならざるをえない。それでも考えておくに値する事柄はいくつかある。以下それを示す。

特に重要なのは、「文自体の正しさ」を理解できる、という理解である。外部の事実に照らした文の真偽ではなく、文自体(の発音や表記も含めたもの)の正誤である。ただし、文が誤っている場合には注意が必要だ。誤った文が理解できるというのは「どこをどう直せば正しくなるか」が理解できる場合に、ほぼ限られるからだ。というのも、どこをどう直せばいいのかが即時にわからないような文は、そもそも同定すら困難だからだ。少なくとも実効的な言語たりえない。そのような、同定できないものに対して理解可能性を論じることは意義が無い。

「どこをどう直せば正しくなるのか」が理解できる文というのは、したがってやや些細な揚げ足取りじみた態度によって見いだされやすい。「詳しいことまでいちいちあげつらう。」→「細かいことまでいちいちあげつらう。」といった誤文修正を見るとそれがわかると思う。つまり、このくらいに「些細な」誤りでないと「どこをどう直せば正しくなるのか」が理解できる文になりにくいのだ。たとえば「からすがにこきにとまっているよ」を「二個→二羽」というふうに修正するのは、漢字を交えて書かれた文字言語だと容易だ。しかし音声言語だと困難だと思う。なぜなら「にこ」という音声が音の数が少なく前後の語に紛れやすいので、これを「二個」と聞き取れるためにはしかるべき先行文が無いと困難であるからだ。そして、「二羽」を「二個」と誤るというのは、その事情を覆せるほどに「よくある誤り」ではない。誤りとしては少し大胆すぎるものなのだ。誤っており誤りが理解できる文というのは、だから文字言語ならいろいろ成立するだろうが、音声言語だとかなり限られる。音声言語の場合は、誤っている文の多くは同定できず、したがって即時の理解もできない文であるとみて良い。文字には活字があるが、音声にはそれに匹敵する存在が(せいぜいアナウンサーの発声・発音くらいしか)無いのだからそうなる。

「文自体のわかりやすさ」を理解できる、という理解もある。たとえば文意は理解できないが、その文が理解困難な文であるということは理解できる、という事態が想定可能である。ただ概して言えば、「文自体がわかりにくいということがわかる」という場合には、文意が理解できないだけでなく、その文が正誤面で正しいかどうかも理解できない、ということになることが多いと思う。なのでこの場合は、その文が日本語であることは理解でき、理解しにくい文であることも理解できるが、それ以外は大してわからない、ということになる。これはわりとありふれた日常の風景かも知れない。その一方で、文意も理解でき、その文がわかりやすい文だということも理解できる、ということはあまりない。というか、「理解という出来事」を経由しないことにおそらくなる。理解できる文に対して「わかりやすい文であることも理解できる」というような認識をするのは、文そのものに対して専門的態度をとっていないとなかなかできないからである。要するに私たちの多くは、「文のわかりにくさ」には鋭敏であっても「文のわかりやすさ」にはあまり鋭敏でないものなのだ。

その一部として「語句や言い回しの頻度や新旧がわかる」という理解もある。たとえば「この語句は使用頻度の低い語句だ」とか「この言い回しは古い言い方だ」「この言い回しは若者言葉だ」ということが理解できることが、ままある。これは要するに、とりわけ際立ったものに対してだけ注意が働く、といったタイプの事態ではないかと思う。語句や言い回しの使用頻度や新旧などを通常はあまり意識しないが、際立った場合には意識することがある、というタイプの事柄だろう。

今のところここまで。


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