トップ 最新 追記

準備待想

2016|10|11|12|
2017|01|02|

2016-12-04 聴解が難しい『ニンニンジャー』の難点

以下の文章は約一年強前に私が書いた文章をあまり直さずに掲載したものです。掲載する理由の半分は、「自分が書いたという事を完全に忘れていたから」というものです。役立つ内容も含まれているので今後「忘れないために」というわけです。

注意した方が良いのは私が視聴したDVDの性質です。この番組のDVDには、番組の全体をきちんと収録したもののほかに、一部の場面だけを省略して番組の2/3程度の分量に抑えたうえで、先行的に販売されたDVDもあります。私が視聴したDVDはおそらく後者なので、番組全体への「合理性」の評価が妥当なものかは疑問の余地があります。つまり、以下の主張は実際に放映されたものよりも中途半端に限定された内容に基づいた判断に依拠しているかもしれない、ということをあらかじめお断りしておきます。

なお「合理性」「合理的」という語は、「経済合理性」「経済合理的」の意味内容に限定して使う人も世の中に多いわけですが、つまり「無駄を省いて」の意味に限定して使う人も多いわけですが、以下の文章ではそれとは違う用法です。すなわち「合理的」→「理にかなった理解が可能である」、「合理性」→「理にかなった理解が可能であるという性質」、という用法で書いています。


『ニンニンジャー』が「教材」として使うにはいささか難がある、という話から入りましょう。2015年現在、テレビ朝日系列局で放映されている『手裏剣戦隊ニンニンジャー』を私は途中回から見始めました。最初の印象は、「教材」に使えそうな番組である、というものでした。いやそれどころか、教材であることを意図して制作された番組なのでは、という感じすら受けました。ですが、このたび発売されたばかりのDVDを視聴して初期の回を視聴して、その印象は撤回したほうが良いのでは、と思うようになりました。この番組の制作者が、何らかの形で「小学校英語の義務化」への対応といったことを考えていることは、疑いえないと思います。つまり早期英語教育によって日本語力が破壊されないように、よりいっそう高度な日本語力を小学校にあがる以前の幼児期のうちに形成しよう、というわけです。ですが、その意図は「教材として使うことのできる番組」という形としては結実しなかった、ということになると思います。

この番組の第一印象が「教材として使えそう」というものだったのは、小学校高学年以上を明らかに想定しているだろう程度にはせりふが難しいものだったからです。そして、難しい語彙や定型的なフレーズを、適切な文脈とともに「習得」するのが、日本語上達の早道だからだと思うからです。それならば、番組を視聴してそのせりふのディクテーションを行なうことで、日本語の教材になるのではないか、と思えたのです。では、なぜその後の印象が「教材としては難あり」に変化したのでしょうか。それは登場人物の行動が合理性を欠いているように思えたことによるものです。いや、もっと言うと、脚本を書いている人の思考も合理性を欠いているようにすら思えるのです。登場人物にも脚本にも合理性がどこか欠落している、となると、それは「適切な文脈」を提示することになりません。「適切な文脈」が不足したまま「難しいせりふ」だけが飛び交う番組が「教材」になるとは私には思えないのです。

まずは、この番組のセリフの語句レベルの難しさを、分類して提示してみましょう。

グループA:古語と「専門用語」
「末裔」「やいば」「娑婆」「推参」「小姓」「三下」「支配せんとする」「あやつら」「わらわ」「戦場(いくさば)」等々
グループB:同音異義語がある漢字語等
「仮定(の話)」「実戦」「称号」「退いてください(ひいてください)」「単調」「視界」「(宇宙人と)交信」
グループC:馴染みの薄い漢字語
「阻止」「異変」「経験」「風情」「毒舌」「変化(へんげ)」「召喚(の術)」「潜入」「遭遇」「瞬殺」「反面教師」「援護」「存在価値」「人畜無害」「折衷案」「不穏」「幻影」「月面」「金輪際」「我流」「ご名答」
グループD 馴染みの薄い和語・定型句
「生まれてこのかた」「おこがましい」「科学の粋を集めた」「侮る」「足止め」「手合せ」「言いたげ」「今一度」「ぶれない」「ちまちました」「仕留め損なう」「死に急ぐ」「相見える(あいまみえる)」「バランスがとれた」「引き立て合う」「張り込み」「仕込み」「諦めが悪い」「見切る」「受けて立つ」「よいしょ(おだてること)」「手玉に取る」「というと何か、○○ならばいいというわけか?」「兄が兄なら妹も妹だ」「○○これに極まれりです」

また、登場人物の一人の口癖で「easyだな」というものがあります。複数回にわたって観察するかぎり、この言い回しは多くの場合は「安直だな」と否定的な評価を下すときに使われていますが、「容易(な課題)だな」というふうな肯定的・前向きな気分を表わすときにも使われていることがときどきあります。この使い分けも、子供にとって難しいだろうものの一つです。意味内容が正反対なのに同じような語調で言われるからであり、またもちろん「英単語」だからでもあります。

で、このくらい難しくても、内容が合理性の高いものであれば良いのですが、そうとも言い切れないところに、問題があります。

第一話で、主人公の一族の管理下にある「道場」が、謎の集団によって襲撃され、破壊されます。主人公がそのとき謎の集団に攻撃され応戦するところから、物語は始まります。ところが、その出来事が、その後現れる登場人物に適切に共有されていきません。主人公の父親(おそらく道場の管理者)は、破壊された道場を見ても何も言いません。主人公と再会した妹は、道場を破壊したのは兄だと勝手に思い込み、しかしそのことを主人公の父親に訴えたりなどもしません。そして、その後主人公の父親が、古来からの因縁のある凶悪な集団の存在について語るのですが、道場が破壊されたこととほとんど関連づけることなく語ります。凶悪な集団が存在することを熱心に主張するわりには、目の前の道場の惨状に無関心である、という奇妙な行動をとります。

この件に代表されるような、登場人物の非合理性、あるいは脚本の非合理性というものは、おそらく視聴層として想定されている「かなり幼い子供」が突っ込みながら見ることができるように、という配慮なのでしょう。視聴者である子供が「この人の言っていることはおかしいよ」とか言いながらも熱心に見入ることができるように、ということなのでしょう。そのためには、登場人物が適度に「愚かな」行動をとってくれないと、というわけなのでしょう。しかし、そのためには「この人の言っていることは間違っていた」という結論に最終的に着地することが必要になります。しかし実際には子供の突っ込みを誘いかねない愚行が、「結局間違っていた」というふうに着地しないことがけっこう見受けられる気がするのです(この件についてもそうでした)。そうであるならば、単に脚本が非合理である、あるいは少なくともそう受け取られることへの配慮を欠いている、ということに過ぎません。そうである場合、その番組内容は全体として「難解」になってしまいます。

「かなり幼い子供」から見たときに「愚かな行動をとることがある」登場人物と、「ほとんど判断を間違えず愚行もしない」登場人物とがいる、というふうにこの番組は進んでいきます。前者に視聴者である幼児は感情移入や突っ込みをしながら見、かつ、後者を幼児は理想化しながら見る、という図が番組制作側には考えられているのかもしれません。


と、こんな内容を書いたことなどすっかり忘れていました。私が子供の頃の幼児向け番組に比べればおそらく数倍は「理解可能性」が上昇しているはずのこの番組にややきつ目の評価を下したように思い、忸怩たるものがあります。まあしかし、昔に比べて理解しやすい番組を作る技術やノウハウも向上している反面、考慮すべき制約の種類も時代の変化に伴って増えて、結局相殺し合って、シンプルにわかりやすい番組を作ることは相変わらず困難であるのかもしれません。

筆者は子供の頃、幼児向け番組も学校の授業も日常会話も、大半が馬耳東風であるという「聴解力」の低い子供であったので、このような問題意識がどこかにあったのです。学力は、授業ではなくもっぱら「文字の教材」でつきましたし、日本語力も「文字の本」でつきました。そういう子供だった者ならではの提言と思っていただけるとありがたいです。


2016-12-08 早押しクイズと準拠集団

日本には、一定以上の自然災害リスクが多種類、半ば恒久的にあり、各地域に広く分布しています。そのため、「社会的階層の高い者が住みがちである自然災害リスクの少ない地域/社会的階層の高くない者が住みがちである自然災害リスクの少なくない地域」というふうに国土が分かれています。自然災害リスクを決定的に克服できる段階に人類の科学技術のレベルがまだ達していないため、この社会的階層の棲み分けや格差は、世代を超えて固定されていきます。

また、それに応じて、人災リスクの高い設備もまた自然災害リスクに応じて配置されていくことも起こります。たとえば地震・津波のリスクの大きい土地に原発が配置されがちなのは、決して偶然ではなく、地震・津波のリスクの少ない土地に住む社会的階層の高い人々の近傍に原発を設置することなどありえないからだ、という事情もあるわけです。もちろん原発と米軍基地のように、ともに人災リスクが高いがしかし両方を近接させることなどありえない、というようなタイプの関係もありうるわけであり、事態は単純ではありません。

さて、社会的階層が空間的に棲み分けられているため、棲み分けられているというその事態はなかなか空間的に目に入ってきません。高偏差値者の周囲には高偏差値者が多いことが多く、高卒者の周囲には高卒者が多い、というような関係が日本全体にまんべんなく成立しています。そのため、自分の周囲の似たような相手との比較による社会的判断を行ないがちになります。

たとえば、高校での学力が高くても自分の親族や同級生が高卒ばかりだと「大学に進学しよう」という積極的な動機をもたないため大学に進学しない、ということが起こります。その真逆ももちろん多く、自分の親族や周囲が高偏差値者だらけなので、高校での劣等生であっても「自分はやればできる」と思い込んで、短期間の猛勉強でしかるべき大学に進学したりする、ことがあります。

このような社会的判断をする際に準拠している集団のことを、準拠集団と呼ぶことがあります。集団と言っても地理空間的に、あるいは電子空間的に、一ヶ所に固まった集団である必要はまったくありません。世界中に、あるいはインターネット上に少しずつ散らばっていたりしても良いわけです。ただし集団の成員どうしがお互いに可視的であることからは独特の影響が生じえ、その影響が重要なときもあります。なので、相互に可視的であるような準拠集団もあれば、もっと捉えどころがないけど影響は受けているというような準拠集団もある、とまとめることができます。


準拠集団について考えるための効果的な話題の一例として、早押しクイズを取り上げてみます。早押しクイズというのは、一見すると反射神経を競っている競技のようにも思えますが実はそう単純でもない、ということを、以下言おうとしています。

早押しという名前なので「いかに早く押すか」を競っているように聞こえるわけです。ですが、実際には「いかに必要最小限の量だけ出題文を聞いて答えるか」を競っているわけです。「単に最小限の量」を競うのなら早さを競っているのとほぼ同じになります。ですが「必要」最小限を競っているのであるからして、「早ければ早いほど良い」とはなりません。「必要なだけ」出題文を聞く必要もあります。つまり「適度に遅く押す」ことが求められる局面もまたあります。

ともかく出題文の全部を聞かないで回答するというのが通常であるような競技です。ですから出題文を全部知った上で回答する筆記試験のようなものとは、求められているものがいくぶん違います。すなわち、出題文を全部知った上で回答する筆記試験ができるのは当然であり、その上で何が必要になっているのか、を解明しなくては早押しクイズはわかりません。

早押しクイズの「全盛期」(1990年代前半)のテレビ番組映像をある程度見ていると、だいたいわかってきます。「全盛期」の早押しクイズでは実質的に次の二つを競っています。

  1. 「Aという質問の答がXであることを知っている」
  2. 「『答がXであるような出題文A』が存在することを知っている」
以上の二つです。後者について述べます。

一般的なクイズや試験では前者の知識があれば一応良いとされています。ただし一般的な試験ですら時間制限があったりするので、実際には後者の知識がある方が有利です。まして、出題文自体を当てるという早押しクイズにおいては、後者の知識があることがとりわけ決定的に有利になります。そのことはしばしば見落とされています。見落とされている理由の一つは、早押しクイズでも「X」だけを回答させるため、「Aの存在」を知っているかどうかが検証されないからです。しかしもし早押しクイズで「X」の代りに「A」を答えさせれば、「X」を回答できる者ならだいたい「A」も回答できるはずだろう、という推測は容易です。

例を挙げます。「11月3日の天気は晴れが多いなど、ある気象条件が偶然とは考えられない確率で起こる日を何と言う?」という出題文があったとします(実際あった)。これを「11月3日の天気は晴れがお」くらいまで聞いて、早押しし正解できたクイズマニアがいたとします(実際いた)。今見れる動画だとRECO0012の5分34秒~40秒くらいの箇所です。さてこの回答者は、出題文の全文を知ってそれに対して「特異日」と回答することはもちろんできるわけです。ですがそれだけでなく、そもそもこの出題文自体をあらかじめ知識として知っていた、と判断できます。つまり、事前にクイズに備えて準備しているときにすでにこのような出題文を学習し練習しただろう、と判断できます。「11月3日の天気は晴れが多いなど、ある気象条件が偶然とは考えられない確率で起こる日を何と言う?」と聞かれて「特異日」と回答できることに加えて「“M月N日の天気は晴れが多いなど、ある気象条件が偶然とは考えられない確率で起こる日を何と言う?”という出題文が存在する(出題されうる)という知識」も持っていたように思えるわけです。

そうでなければこのタイミングで押すことはできません。そう言いたくなります。

比喩で言えばこんな感じです。通常の学校優等生・受験優等生というのは、「問題集に載っている問題ならどんな問題でも解ける」という人であるとします。それに対して、クイズマニアというのは言わば「それもできるし、それに加えて、問題集に載っている問題ならどんな出題文でも全部覚えているし全部答えることができる」という知識をも備えているのも同然なわけです。早押しクイズというのが、「出題文自体を当てる」ことを前提にしている競技である以上、それは当然のことだとも言えます。

もう一つだけ述べておきます。「Aという質問の答がXである」という出題文の難易度と、「Aという出題文を当てて、早押しする」という早押しの難易度とは全然一致しません。むしろ出題文に回答するのが容易であるようなものほど、早押しで出題されたときには難易度が高いことすら多いと言えます。というのは、易しい出題、ありふれた出題の場合、「何が正解になるか」からして不定である、ということが言えるからです。たとえば「XであるYはZである」という関係から、Xを問う出題も、YやZを問う出題も作れます。あるいは「XであるYはZですが、ではX´であるY´は何でしょう?」という出題も作れます。なので、易しい知識・ありふれた知識を問うように見える出題は早押しクイズとしては「押すのが早すぎてはいけない」出題になることが多く、結果的に難易度が高いほうの出題になりやすいのです。

さてここまでだと「準拠集団」の話題と関係ありませんが、実はここからが大いに関連してくる論点になります。

それは「早押しクイズの出題文は有限であり、その“全部”を学習することが不可能ではない」というものです。次に示します。

自身が早押しを含むクイズマニアである長戸勇人氏は著書『クイズは創造力<理論編>』(情報センター,1990)で、早押しクイズを百人一首になぞらえました。すなわち、百人一首という競技は全部の句を即座に想起できるだけではおそらく不十分であり、「“きみがため”で始まる句は二つある」とか「“む”で始まる句は一つしかない」というふうに、記憶対象の全体に照準した知識もまた、勝つためには有用・不可欠である、―というわけです。

これと同じ判断ができるようになることは早押しクイズでも有用・不可欠になります。さて、一見すると早押しクイズの出題文は無限にありうるように思えます。そのため「〇〇という出題文は一通りしかない」とか「××を問う出題文は存在しない」という「知識」は成立不可能のようにも思えます。しかし実はそうでもないのです。「Aという出題文によく似た出題文A´やA´´が存在する」とか「Xを問う出題文は出ない」とか、そういう知識も案外可能であることが多いのです。つまり、出題文と正解の組み合わせが有限であるかのように、クイズマニアは振る舞うことができるのです。なぜでしょうか。

二つの要因があります。一つは、早押しクイズの回答者と出題者とは同じタイプの人であるということがあります。実際かつてクイズマニアで回答者としても有名だった者が後に出題者の側になることもあります。そしてもう一つこちらのほうが一層重要なのですが、早押しクイズというのは、「早押しクイズのマニアが解ける問題が解けるようになること」しか対策が無いため、「早押しクイズのマニアが知っている知識」を学習することができる者しか有用な対策が取れないのです。つまり、早押しクイズに強い者というのは「早押しクイズに強い者が知っている事柄を知っている」者だということになるのです。

先の長戸氏の著書でも紹介されています。クイズマニアたちは定期的に集会を開き、その中でいろいろなゲームを行ないます。そのなかの一つに「いちばん多くの正解者を出したクイズを考案した者が勝ち」というゲームもあります。この種のゲームによって「クイズマニアの知っている知識」というものがクイズマニアの間で可視化されます。そこから「クイズマニアの知っていそうな知識」という予想もしやすくなります。クイズマニアの知っていそうな知識を問う出題文を出題文ごと記憶することが、結局は早押しクイズ対策になるわけです。そのためには「クイズマニアの知っていそうな知識」という予想が立てられることが有用であり、それは「クイズマニアの集団」という準拠集団を想定できるようになることと等価なわけです。特にテレビなどの早押しクイズの場合、出題者もまたこの準拠集団の一員なので二重に有用なのです。

早押しクイズの出題文はいっけん無限のように思えるわけですが、それは「クイズマニアという準拠集団」を持たないからなのであって、そういう想定ができる者にとっては違うわけです。「こんな出題、マニアは誰も解けない」「この出題だとマニアの正解率は〇〇%くらいだろう」という判断・予想がマニア同志ではできるわけです。そのため、早押しクイズ対策としてとられる事前の準備学習も「マニアが知っていそうな知識」に絞ることができるわけです。そのため出題範囲も実は有限と言っても良く、したがって「〇〇という出題文は出ない」とか「Xを問う出題文に似た出題文は三通りある」などのメタ認識すらも可能になるわけです。

ちなみに特に最近のテレビ番組での早押しクイズはあまりこのような資質を求められていないように見受けられます。つまりもっと出題のレベルを落として、多くの回答者が一斉に早押しをするように仕向けているように見えます。そのようにすると誰が勝つか事前の予想がつきにくくなるからでしょう。実際、「全盛期」のような早押しクイズを続けていると次第にメンバーが固定化し、誰が勝つかも大体は予想がついてしまい、視聴者に飽きられてしまうものです。なのでここ20年くらいはクイズマニアが出場するクイズ番組自体ほとんど無く、「博識な芸能人」によるある程度レベルを下げた早押しクイズが多く見られるようになりました。そう言ってもいいと思います。

今はここまで。


2016-12-10


トップ 最新 追記