トップ «前の日記(2016-11-25) 最新 次の日記(2016-12-08)» 編集

準備待想

2016|10|11|12|
2017|01|02|04|

2016-12-04 聴解が難しい『ニンニンジャー』の難点

以下の文章は約一年強前に私が書いた文章をあまり直さずに掲載したものです。掲載する理由の半分は、「自分が書いたという事を完全に忘れていたから」というものです。役立つ内容も含まれているので今後「忘れないために」というわけです。

注意した方が良いのは私が視聴したDVDの性質です。この番組のDVDには、番組の全体をきちんと収録したもののほかに、一部の場面だけを省略して番組の2/3程度の分量に抑えたうえで、先行的に販売されたDVDもあります。私が視聴したDVDはおそらく後者なので、番組全体への「合理性」の評価が妥当なものかは疑問の余地があります。つまり、以下の主張は実際に放映されたものよりも中途半端に限定された内容に基づいた判断に依拠しているかもしれない、ということをあらかじめお断りしておきます。

なお「合理性」「合理的」という語は、「経済合理性」「経済合理的」の意味内容に限定して使う人も世の中に多いわけですが、つまり「無駄を省いて」の意味に限定して使う人も多いわけですが、以下の文章ではそれとは違う用法です。すなわち「合理的」→「理にかなった理解が可能である」、「合理性」→「理にかなった理解が可能であるという性質」、という用法で書いています。


『ニンニンジャー』が「教材」として使うにはいささか難がある、という話から入りましょう。2015年現在、テレビ朝日系列局で放映されている『手裏剣戦隊ニンニンジャー』を私は途中回から見始めました。最初の印象は、「教材」に使えそうな番組である、というものでした。いやそれどころか、教材であることを意図して制作された番組なのでは、という感じすら受けました。ですが、このたび発売されたばかりのDVDを視聴して初期の回を視聴して、その印象は撤回したほうが良いのでは、と思うようになりました。この番組の制作者が、何らかの形で「小学校英語の義務化」への対応といったことを考えていることは、疑いえないと思います。つまり早期英語教育によって日本語力が破壊されないように、よりいっそう高度な日本語力を小学校にあがる以前の幼児期のうちに形成しよう、というわけです。ですが、その意図は「教材として使うことのできる番組」という形としては結実しなかった、ということになると思います。

この番組の第一印象が「教材として使えそう」というものだったのは、小学校高学年以上を明らかに想定しているだろう程度にはせりふが難しいものだったからです。そして、難しい語彙や定型的なフレーズを、適切な文脈とともに「習得」するのが、日本語上達の早道だからだと思うからです。それならば、番組を視聴してそのせりふのディクテーションを行なうことで、日本語の教材になるのではないか、と思えたのです。では、なぜその後の印象が「教材としては難あり」に変化したのでしょうか。それは登場人物の行動が合理性を欠いているように思えたことによるものです。いや、もっと言うと、脚本を書いている人の思考も合理性を欠いているようにすら思えるのです。登場人物にも脚本にも合理性がどこか欠落している、となると、それは「適切な文脈」を提示することになりません。「適切な文脈」が不足したまま「難しいせりふ」だけが飛び交う番組が「教材」になるとは私には思えないのです。

まずは、この番組のセリフの語句レベルの難しさを、分類して提示してみましょう。

グループA:古語と「専門用語」
「末裔」「やいば」「娑婆」「推参」「小姓」「三下」「支配せんとする」「あやつら」「わらわ」「戦場(いくさば)」等々
グループB:同音異義語がある漢字語等
「仮定(の話)」「実戦」「称号」「退いてください(ひいてください)」「単調」「視界」「(宇宙人と)交信」
グループC:馴染みの薄い漢字語
「阻止」「異変」「経験」「風情」「毒舌」「変化(へんげ)」「召喚(の術)」「潜入」「遭遇」「瞬殺」「反面教師」「援護」「存在価値」「人畜無害」「折衷案」「不穏」「幻影」「月面」「金輪際」「我流」「ご名答」
グループD 馴染みの薄い和語・定型句
「生まれてこのかた」「おこがましい」「科学の粋を集めた」「侮る」「足止め」「手合せ」「言いたげ」「今一度」「ぶれない」「ちまちました」「仕留め損なう」「死に急ぐ」「相見える(あいまみえる)」「バランスがとれた」「引き立て合う」「張り込み」「仕込み」「諦めが悪い」「見切る」「受けて立つ」「よいしょ(おだてること)」「手玉に取る」「というと何か、○○ならばいいというわけか?」「兄が兄なら妹も妹だ」「○○これに極まれりです」

また、登場人物の一人の口癖で「easyだな」というものがあります。複数回にわたって観察するかぎり、この言い回しは多くの場合は「安直だな」と否定的な評価を下すときに使われていますが、「容易(な課題)だな」というふうな肯定的・前向きな気分を表わすときにも使われていることがときどきあります。この使い分けも、子供にとって難しいだろうものの一つです。意味内容が正反対なのに同じような語調で言われるからであり、またもちろん「英単語」だからでもあります。

で、このくらい難しくても、内容が合理性の高いものであれば良いのですが、そうとも言い切れないところに、問題があります。

第一話で、主人公の一族の管理下にある「道場」が、謎の集団によって襲撃され、破壊されます。主人公がそのとき謎の集団に攻撃され応戦するところから、物語は始まります。ところが、その出来事が、その後現れる登場人物に適切に共有されていきません。主人公の父親(おそらく道場の管理者)は、破壊された道場を見ても何も言いません。主人公と再会した妹は、道場を破壊したのは兄だと勝手に思い込み、しかしそのことを主人公の父親に訴えたりなどもしません。そして、その後主人公の父親が、古来からの因縁のある凶悪な集団の存在について語るのですが、道場が破壊されたこととほとんど関連づけることなく語ります。凶悪な集団が存在することを熱心に主張するわりには、目の前の道場の惨状に無関心である、という奇妙な行動をとります。

この件に代表されるような、登場人物の非合理性、あるいは脚本の非合理性というものは、おそらく視聴層として想定されている「かなり幼い子供」が突っ込みながら見ることができるように、という配慮なのでしょう。視聴者である子供が「この人の言っていることはおかしいよ」とか言いながらも熱心に見入ることができるように、ということなのでしょう。そのためには、登場人物が適度に「愚かな」行動をとってくれないと、というわけなのでしょう。しかし、そのためには「この人の言っていることは間違っていた」という結論に最終的に着地することが必要になります。しかし実際には子供の突っ込みを誘いかねない愚行が、「結局間違っていた」というふうに着地しないことがけっこう見受けられる気がするのです(この件についてもそうでした)。そうであるならば、単に脚本が非合理である、あるいは少なくともそう受け取られることへの配慮を欠いている、ということに過ぎません。そうである場合、その番組内容は全体として「難解」になってしまいます。

「かなり幼い子供」から見たときに「愚かな行動をとることがある」登場人物と、「ほとんど判断を間違えず愚行もしない」登場人物とがいる、というふうにこの番組は進んでいきます。前者に視聴者である幼児は感情移入や突っ込みをしながら見、かつ、後者を幼児は理想化しながら見る、という図が番組制作側には考えられているのかもしれません。


と、こんな内容を書いたことなどすっかり忘れていました。私が子供の頃の幼児向け番組に比べればおそらく数倍は「理解可能性」が上昇しているはずのこの番組にややきつ目の評価を下したように思い、忸怩たるものがあります。まあしかし、昔に比べて理解しやすい番組を作る技術やノウハウも向上している反面、考慮すべき制約の種類も時代の変化に伴って増えて、結局相殺し合って、シンプルにわかりやすい番組を作ることは相変わらず困難であるのかもしれません。

筆者は子供の頃、幼児向け番組も学校の授業も日常会話も、大半が馬耳東風であるという「聴解力」の低い子供であったので、このような問題意識がどこかにあったのです。学力は、授業ではなくもっぱら「文字の教材」でつきましたし、日本語力も「文字の本」でつきました。そういう子供だった者ならではの提言と思っていただけるとありがたいです。


トップ «前の日記(2016-11-25) 最新 次の日記(2016-12-08)» 編集