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2017-01-04 大卒レベルの文章を高校生が書くことが難しい事情

高校生が大学選び・学部学科専攻選びをするためには、「大学での卒論の予行練習」のような文章を時間を大いにかけて一度書いてみることが良い。大卒レベルに近づくことが大学選びのための有効な手段だからだ。ただし、現実的にはあらゆる事情からそれは困難である。その困難のうちの一つに絞って以下指摘しておきたい。それは「事実記述と価値評価の区別」という問題圏に関係している。

中学・高校という教育機関がこの社会で果たしている役割というものを考えてみると、わかる。中学・高校というのは、「生殖可能な未成年の男女に性交をさせない」という社会的期待に最低限応えるために存在しているのも同然なのである。そして、他の役割はあくまでこの最低限の役割を果たすことを前提にしたうえでのものである。ところが、その「男女に性交をさせない」役割は表立ってはあまり語られない。したがってそのような社会空間では、大学という社会とは異なる独特の規範的傾向が存在する。その独特の規範的傾向は「事実を直視させない」ために有効であり、したがって「卒論の予行練習」を書くためには妨害となりうるのである。それは「事実を記述すること」よりも「規範的評価を下す」ことのほうがより高く評価される、という傾向である。

さて、この傾向は二つの面で妨害的に影響しうる。一つは「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」ことになりやすくなる、という影響である。もう一つは、「事実を記述しうる性能が低い」概念を使用しがちになる、という影響である。

事実を記述したり報告したりすることは、別に価値中立的というわけではない。喩えるならばそれは、どんな映像であっても必ず特定の視点から描かれるのと同じような事態なのであり、事実記述や事実報告もまた必ず特定の立場からなされるのということなのである。つまり、その意味で事実記述は価値中立性を前提しているわけではない。とは言え、「語る」と「示す」の区別はもちろんある。「事実を“語る”」ことによって「価値観や評価を“示す”」ことは無論可能だし不可避でもあるが、だからといって、それと「価値観や評価を“語る”」こととは混同できない。つまり「事実を語る」ことと「評価を語る」こととは一定程度なら区別可能である。

また学者の研究というのは、事実に基づいて行なわれるにしても、まったく価値中立というわけでは無論ない。すなわち、認知的価値や認知的規範とでも呼べるような価値観には従っている。たとえば「知らないよりは知っているほうが良い」とか「新しい認識や珍しい認識や意外な認識には価値がある」といった価値や規範に従っていることが多い。さらにまた、認知的な価値や規範以外でも、学者の方がある種の価値観を積極的に表明することも多い。たとえば「人類皆平等」のようなタイプのヒューマニズムに依拠し、またそれを積極的に表明もするような学術的営為は決して少なくない。この場合、「知るに値すること」という認知的な価値もそのヒューマニズムの枠内でのものになりやすい。

と、そのようにして、「事実を記述する」ことと「価値評価を下す」こととは截然と二分はできないと言える。しかし同時に、それでも「事実を記述する性能」が高い表現もあれば低い表現もある、ということは言いうる。ちなみに同様のことは「事実記述/比喩表現」という対立項についても言える。すなわち、何が事実記述であり何が比喩表現かは完全に区別できるものではなく、程度問題ではあるが、それでも「事実を記述する性能」が高い表現もあればそうでないものもある、とは言いうる。たとえば、「机の脚」とか「耳を澄ます」という表現は「事実を記述する性能」が決して低いとは言えない表現であるが、だからといって「これらは比喩表現でない」と簡単に言い切れまではしないだろう。ともかくこのように、「事実を記述する」ということは、一般に、対立項と明確に区別しきれるものではないが、かと言ってその性能の高低を論じることは充分可能であるということは言えるのだ。それに比べて「事実を記述すること」を何かの対立項と対比して識別すること自体は、さほど有意義とは思えないのである。

たとえば次のようなことを考えてみても良い。「美人」という語は「事実を記述しうる性能が低い」語だろうか。いっけんすると「美人」というのは「事実を記述する」語ではなく「評価を下す」語のように思える。しかし事態はそう単純ではない。「美人」というのは「多くの人が美人であると評価を下しがちな女性のことで(は)ある」という「事実記述」に似た文でもって規定することのできる概念だとも言えるからだ。このように考えると、いっけん「評価を下す」語であっても事実記述の性能が低いとは言い切れず、むしろ「多くの人がそう評価するかどうかがある程度一致するかどうか」こそが重要であることになり、語が事実記述の語か評価判定の語であるかは必ずしも重要ではないことになる。要はその語の使い方・適用する対象や文脈の、多くの人々の間のある程度の一致こそが重要であることになる。

それに関連して次の点も併せて押さえておくべきだろう。典型的には指示詞のような語の用法である。「これ」とか「あなた」という語は、「多くの人が“これ”と呼ぶもの」「多くの人が“あなた”と呼ぶもの」のことを指す語では、ない。これらはその都度の状況―たとえばそのときの送り手と受け手が誰なのか―によって、指す対象がいちいち変わるような語なのである。そのような性質は、「おいしい」といった語にもある程度あてはまる。この点は西阪仰『相互行為分析という視点』(1997)でも指摘されている。それを踏まえると次のように言えるだろう。「おいしい」の用法としては、「多くの人がおいしいと呼ぶような対象の味覚的性質」を指す用法もある。これだけなら他のたいていの語と同じである。しかし、それと同時に、「誰が何と言おうと自分がおいしいと思うという味覚体験」を指す用法もまたあるのである。

さて一つめの、「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」ことになりやすくなる、とはこうである。たとえば次のよう。学術論文に似たような文章を書くためには、「普通なら××なのに、この場合は○○だ。どうなっているのだろう?」というような問題意識をもつと良い、と言える。というのは、そこには問うということの理由、問題を解明するということの理由があるからだ。つまりそれは「意外な状態が成立しているから」だ。もし意外な状態が成立していないのなら、仮にその理由は未知であっても論文にする理由としては弱い。未知の問いを解明することなどは当然すぎる理由でありそれだけでは論文にする理由としては弱いからだ。すなわち、未知でもあり意外な結果になっている事態だからこそ論文にする理由・研究する理由というものがあり、正当性があるのだ。

さて、そこで「普通なら××なのに」の箇所が問題となる。ここで「学知として蓄積された真理・法則等と日常的真理および諸事実に基づいて、普通に予測すれば××なのに」ということがすんなり主張できるのなら良い。そうするとたとえば次のようになる。「普通に考えて殺人は無くならない。なぜなら殺人を望む人間が一人いれば、他の全員が殺人に反対していても、殺人は成立することが可能だからだ。ところがМという条件では殺人が起こらない。これは意外である。どのようにして殺人が起こらないという結果になっているのだろうか?」…と、こうである。ところがここで「普通なら××なのに」の箇所に事実を度外視した「希望的観測」を入れてしまう、ということが起こりうる。するとたとえば「普通なら殺人など好ましくないのに、殺人は無くならない。いったいなぜだろう」といった問い方になる。

同じようにして「普通なら戦争など好ましくないのに、戦争は無くならない。なぜだろう」とか「普通なら学力低下など好ましくないのに、学力低下が起こっているらしい。なぜだろう」といった問い方ができる。しかしながら、こういったタイプの問いはあまり学術的とは言えないだろう。つまり「大学選びのために高校生のうちに卒論の予行練習的な文章を書く」ときにはあまり適した問い方にならない。ここにあるのは「事実を直視」するよりも「望ましい状態を期待する」傾向である。そして、そのような傾向を高等学校までの教育機関は促進しやすい、ということが言えるのだ。その促進しやすさの理由は、とりわけ中学・高校といった教育機関が存在しているもっとも切実な意義から教師も関係者も目を背けており、その態度に生徒が影響されてしまうからだ、とでもまとめられるだろう。

ただし次のようなことは言える。こうだ。普通なら殺人や戦争や学力低下は放っておけば起こってもおかしくないのであり、その発生の原因を問うことに学術的意義が特にあるわけではない。がしかし、発生の仕方や経路・経緯が普通ではない、ということがありうる。たとえば、普通の殺人はAという条件で起こりやすいのに、この殺人はAという条件とむしろ相反するBという条件で起こった、それはなぜだろう、どのようにしてだろう、という問いが立てられうる。同様に、戦争でも学力低下でも問うことができる。すなわち、普通に事実に基づいて予想・想定することのできないような、意外な戦争の起こり方や意外な学力低下の仕方が観察できるのであれば、それは学術的研究・学術論文の対象に正当な仕方でなることができるのだ。

ところで「普通なら××なのに」という箇所や、論文の最低限の要件である「解明対象が未知であること」が大学教員と高校生とで、しかるべく異なっているということもありうることだ。たとえば学力低下について研究したいとする。そのとき、「現在高校生の学力」に関しては高校生のほうはさほど未知ではないかも知れないが、年輩の大学教員にとっては大いに未知であることが多い。それに対して「40年前の高校生の学力」に関しては高校生にとってはまったく未知であるのに対して、年輩の大学教員にとってはさほど未知ではない。そうであると、高校生が「高校生の学力の経年変化」のようなことを調査したいというときの知りたいと思う重点が、年輩の大学教員と全く異なっている、ということになりうるわけだ。つまり高校生が学力低下について調査するときにも、「自分の知りたいこと」を二の次にして「大学教員が知りたいこと」を優先してしまう可能性が大いにある。同様にして「普通なら××なのに」という箇所も、たとえば大学教員にとっての「普通なら備えているはずの学力」と、高校生にとっての「普通なら備えているはずの学力」とでは大いに異なっている可能性がある。そのためたとえば「高校二年生のときに一学年上の全国模試を受けてトップ順位を獲得した」という事例に対して、大学教員のほうは「まあそんなこともあるよね」という態度であるのに対して、高校生のほうは非常に驚きや意外性を感じて、その水準の学力の解明を研究テーマにしてしまうということが起こりうる。

さてもう一つの「事実を記述しうる性能が低い」概念を使用しがちになる、というのは、たとえばこうである。この種の事態はきわめて多様なケースがあると思うが、ここでは「専門家である大学の研究者」と「高校生および高校の教員」との間にギャップが生じやすいタイプの一例を挙げておく。

たとえば「知識」という語について概観する。或る語が、一方では普通の人に日常的に使われてもいるが、他方では専門家によって専門用語として独自の用法で使われている…と、そういうことはいくらでもある。「知識」という語もそうなのだが、その中でもやや特殊である。心理学者や哲学者といった専門家が「知識」という語を使うときはどちらかと言えばそれは「ほめ言葉」であるのに対して、他の多くの人々が「知識」という語を使うときはどちらかと言えばそれは「けなし言葉」である。のみならず、こうである。そもそも先の専門家が「知識」という語で指す対象と、それ以外の一般人が「知識」という語で指す対象自体も、同じ対象を指しているとは言えない。一般人は「知識」という語を、たとえば「理解」や「思考」や「洞察」と対立的に用い、「知識だけある」状態をどちらかと言えば否定的に評価する。そしてこの場合の「知識」というのは、人間の外にある情報化されたものを指すことが多い。それに対して、先の専門家が「知識」という語を使うときは、むしろその「理解」や「洞察」などを指すことが多いのだ。だから「知識のある」状態をどちらかと言えば肯定的に評価する。またそこで指されている対象は、人間の外にある情報化されたものを取り込んだ後の人間の側の状態のほうである。つまり、「知識」という語は、皆が同じ対象を指しているとは限らないという点で事実を記述する性能がやや落ちるうえに、その語によって下されている「評価」も正反対でありうる、という語なのだ。

だから「知識」という語の用法をめぐっては、ある種の専門家とその他の一般人とではギャップが生じている。一般人が「知識だけあってもダメなんだよね」と言う時に、専門家のほうでは「いや、それって“真の知識”じゃないからさ」と思っていたりする。あるいはまた、高校生や高校教員が、教科学習での「理解」や「思考」や「洞察」について知りたいと思ったときに、大学教員の書いた書籍の中で「知識」の語をタイトルやキーワードに含むような本を候補から外したりするわけだ。このようにしてギャップが現実化する。

このギャップの根源にあるのはおそらくこうだ。通常の人の「知識」概念はつまるところ、「少なくとも学校で教わることは知識である」というものだ。それに対して哲学や心理学等の云う「知識」はむしろ「少なくとも自分で獲得してその結果気づいたり血肉化したことは知識である」というものだ。だから、小学・中学・高校といった教育機関が前者のほうの用法を手放すとは思えない。「知識」という語の通常用法から「教わる」という手続きとの関連が消えることはありえない。つまりある種の受動性が消えることはありえない。通常用法では知識とは誰かから与えられるものであり受動的に得られるものなのだ。と同時に、学力テストでは「教わったことを機械的に書けば正解になる出題」と「それ以上の応用や活用を求める出題」という区分もあり、勤勉の大切さを教えることが学校の役割の一つである以上、前者の出題がテストから消えることはありえない。かくして、前者の出題を解くのに必要なものが「知識」、後者の出題を解くのに必要なものは「理解」「思考」「洞察」である、といった区分が自然に作られ維持される。この区分は学力試験の分類の仕方に依存しているものなのだ。だから小中高では「知識」という語が、哲学や心理学等と同じ用法で使われることはありえない。そして、そのような教育機関を経て、その他の学問を学んだ者もまたたいがいはその用法を成人以降も使うから、やはり哲学や心理学等の用法に従って使うことはめったにないはずだ。だから社会全体で見たときも知識という語はやはり学校教育や試験制度と連動したような形での用法が使われ続けることになる。

これだけならまだ、「知識」という語の二つの用法が棲み分けているというだけの話だが、そこで話は終わらない。通常用法での「知識」は「理解」や「思考」あるいは「常識」などの対立項として使われているのであるが、その区別自体が恣意的であるからだ。たとえばこう。「Aさんはクラシック音楽の知識があるだけなのに対して、Bさんはクラシック音楽に深い理解がある」という文を見たときに、ここでの「知識」や「理解」が「事実を記述」した語であるとシンプルに感じる者はまさかいないだろう。もし仮に事実に基づいたうえでの記述であったにしても、むしろこれらの語は「評価を示した」度合いの高いものでもあるのだ。しかもこれは、たとえばクラシックの専門家なら誰がやっても同じように記述する、ということが言えるわけでもない。条件が同じような人間が記述してもそこに大いに幅や相違があるようなものが「事実を記述しうる性能が高い」語であるとは思えないだろう。

大学生向きのものも含めた「文章の書き方」といった文章のなかで、「事実と意見・感想を書き分けよ」といったタイプの提言は頻出のものである。しかし、それを実行したらどのようになるのかを真剣に想定したうえでの提言は皆無である。上記のたんなる一例もまた、そういった提言が想定していないはずのものとして挙げた。のみならず、そういった提言での「事実」「意見」「感想」といった語にもまた、上掲のケースはおおむねそのまま妥当するのだ。ちなみに中学校あたりで行なわれている「事実と意見・感想を書き分けよ」といったタイプの教育は、しかるべき専門家のチェックの入らないトンデモ教育の温床になっている可能性が高い。そのことも付記しておく。

高等学校までの教育機関が、「事実を記述する」よりも「評価を下す」ことに重きをおいていることが、このような事情に基盤にある。そのため「大学での研究者が書くような文章の予行練習としての卒論のような文章」を高校生のうちに書くことに対しては、高校などの教育機関はむしろ妨害的に影響しやすいと述べた。中学・高校といった教育機関の存在する大前提となっている事情から目を背け、事実を直視しない態度が教育機関全体の態度となっていることもその大きな要因である。またそれと連動していることだが、研究者のうち大学の教員になれなかった者がやむをえず高等学校までの教員になる、というルートがほとんど存在しないこともまた、その大きな要因である。高等学校までの教育内容それ自体が、大学での学問のあり方と切り離され、そのための準備期間になっているとは言い難いわけである。そしてその事を重視している人もまたきわめて稀なのである。

なお、いちいち書くのは煩雑なので今さら詳論する気は無いが「事実と意見・感想を書き分けよ」という方針を打ち出す際に、木下是雄、戸田山和久、飯間浩明の当該テーマの著作はまったく考えが足りない著作であることを付記しておく。また宇佐美寛の著作での議論の欠点(「語る」と「示す」の混同)に関しては、改良した提案をすでに上記の文章中でしておいた。

今はここまで。


2017-01-21 「大学選び」が必要になってしまう大学側の状況

高校生が大学選び・学部学科専攻選びをするためには、「大学での卒論の予行練習」のような文章を時間を大いにかけて一度書いてみることが良い。しかしもちろん実際にはそんなことは通常は不可能でもある。可能なのは自分の知りたいことをすでに解明している研究を、「調べ学習」風に紹介する文章を書くところまでである。というのも、未知の問題を新たに解明するための手段は高校生にまず与えられていないからだ。たとえば調査や実験が可能な環境には高校生はないからだ。しかもそのために使用可能な文献は、書店で入手可能な程度の書籍に限定される。そして、必見であるような学術論文のほとんど全部は書店では売っていない。

そもそも、何を学ぶかが大体決まりきっている高等学校や中学校を選ぶこととはまったく異なり、大学を選ぶことは、何を学ぶか自体を選ぶことを中心に含んでいる。そしてこれは独断的に言っておきたいのだが、自分の学びたい大学を選ぶためには大卒レベルの能力が必要なのである。つまり、大学で学んで能力を高めることが本来の目的なのだが、その目的のためにはすでにその能力が付いていることがぜひ必要である、という何ともパラドキシカルな事になっているのである。

なぜ自分の学びたい大学を選ぶのにそこまでの能力が必要になるのかというと、つまるところ、大学というのが学ぶ側の都合で成立しているわけではないからだ。まず、「類似した分野ほど大学組織として近接している」という法則で専攻分野が配置されているわけではまったくない、という事情がある。むろん仮にその法則で配置するとしても問題が解決するわけではないが、実際には全然それ以前の話である。この理由は、ある意味では簡単である。少なからぬ場合、類似した学問分野ほど学問的対立が激しいので、共同で研究を進めていくことが困難なのである。つまり、学問が進歩するためには、類似した分野とあまり協働しないで隣接分野からの批判を遮断したほうがうまくいく、という事情がある。そのため、類似した分野どうしは、しばしば大学組織として別の学部や別のキャンパスに置かれることになるのだ。これは学ぶ側、大学を選ぶ側からすれば、ようするに「お前はどっちの味方になるの?」と迫られることなく、しかし実質的にはどっちかの陣営に付いてしまう、ということを意味する。「誰に師事したくて誰には師事したくない」という学生の希望がまったく形成されないうちに大学を選ぶと、いわば「誰を支持し誰を支持しないか」を大学組織の側に委ねた格好になってしまうのである。

もう一つ現実的な事柄を述べておくが、「卒論を誰に師事して書きたいか」という点を重視して大学を選ぶことはまったく現実的ではない。大学を選ぶほとんど決定的なはずのこの点が、実はまったく当てにできないのだ。大学では教員が突然留学したり突然異動したりすることは、あまりにもよくあることだ。また高校生がもし自力で探して良いと思うような教員がいるとすれば、それは学内では大人気でありその大学の看板とも言えるほどの教員であり、下手をすると抽選とかその他なんらかの選抜をくぐり抜けないとならない教員である可能性がきわめて濃厚である。だからその教員一人だけのためにその大学を選ぶことは推奨できない。選抜に漏れた場合や教員が異動した場合でも、なお、その大学に、ある程度の魅力が感じられるような選び方をする必要がある。だからつまりこの点からいっても、大学というのは学ぶ側の都合で成立している組織ではないということなのだ。

大学というのが学ぶ側の都合で成立しているわけではない、という以前にそもそも大学は、学問をその本分とするような組織編成になっているわけでもない。「文学部」という学部の存在がそれを表している。公務員や法曹職に就きたい者が「法学部」、教員になりたい者が「教育学部」、その他のホワイトカラーになりたいものが「経済学部・商学部」に入学し、そのどれでもない学問を一緒くたにしたものが「文学部」にほかならない。つまり、単なる残余カテゴリーというわけだ。だから、時間が経てばたとえば東大の「教養学部」のようなものが新たにできて、その区分自体を無効化していく。つまり東大の場合、文学部とは「古い学問の寄せ集め」のことにほかならず、教養学部とは「新しい学問の寄せ集め」のことにほかならなくなった。内容によって区分されているのではなく、就職レリバンスと時代の新旧のみによって区分されていた。とりわけこの「文学部」と「教養学部」の棲み分けが、前述した「類似した学問分野ほど学問的対立が激しいので、その遮断のため」に大いに役立ってしまっていたことは言うまでもない。その東大を全国の大学がモデルとして無自覚的に採用しているため、「学問の内容上の類似性」によってではなく、就職レリバンスによって大学組織を編成するという「ものの見方」が当然のように行なわれることとなった。1980年代までの「大学を内容で選ぶべきだ」というのはつまるところ「大学卒業後何になりたいかによって大学・学部を決めよ」ということに過ぎなかったわけだ。この時期まではどのみち大学生活の前半は教養部で潰れる、最後の一年間は就職活動で潰れるので、「学びたい内容を学ぶ」ための大学という見方自体、笑止千万、滑稽なものでしかなかったのだ。

そのこととも関連するが、大学を選ぶというときに「卒論を誰に師事して書くか」という点から考えようとしているこの文章自体が、そもそも「文学部」的過ぎて一般的ではない。法学部だの経済学部だの商学部では卒論など特に一般的ではないし、教育学部のそれもたいがいは形だけのものである。大学の学部生の期間を「研究者予備軍」として捉える見方が、文学部に固有のものであり文系大学生全般の平均や多数派ではまったくない。つまり卒論を「大学院進学のための前哨戦」と捉えて深刻に考えることがまったくの少数派のものである。にもかかわらず、まさに少数派であり、就職ともまったく結びつかないうえに、現政権からは今後ますます弾圧されかねないがゆえに、その立場は保護される必要があると感じる。それにこの立場は、一般学生には縁が薄いとは云え、法学部・経済学部・商学部・教育学部の教員兼研究者やその志望者学生のものでもあるのだ。

要するに、大学はそもそも学問を本位とする組織になっておらず、また、学ぶ側の都合を重視して編成されている組織でもない。言わば「学生に対して大学が何をしてくれるのだろう」と期待して入学するような所ではなく、反対に「学生が大学に何を貢献してくれるのだろう」と大学側が期待しているような所だと思ったほうがまだ実情に近い。卒論というのは学問的な貢献が期待されているはずの制度だからだ。つまり学問的に貢献していないような卒論ならば、教員の本心としては落第にしたいようなものでしかないはずだからだ。卒論を課すというのは、だから実際に期待されているのは「大学や学会への貢献」にほかならないのだ。そしてここでの貢献とは、次のようなものではない。すなわち「〇〇学はまるでつまらないので、面白くしてやろうとしてこの卒論を書きました。どうです、これで面白くなるでしょう?」というものではない。このような考えのもと研究者としての生活をしていた人々が確かに昔は多かったかもしれない。すごく多かったといっても良い。だが、今はもうこれはダメだ。「ならば、あなたが面白いと思う別の教員や分野を見つけて、そちらへ入学してください、来る場所を間違えましたね、さようなら」となるのがオチである。こういうことが許されるのは、まあ大学院に学生が進学し次代の研究者になることを最初から前提にしている東大と京大だけだと思ったほうが良いし、それらの大学の学部生にはこの文章全体が不要でもある。大学を選ぶときも、当然そのような考えの者は受け入れられないことを前提にしなくてはならない。

他にもいろいろ言及可能な論点はあるが、ともあれ総じて「誰に師事して卒論を書くか」という観点での大学選びは、高校生には絶望的に難しい。とは言え、まったく打つ手がないわけでもない。「大まかな選択前提」のリストのようなものがあれば事態はだいぶ進展する。たとえば「社会学だったら、東大か明治学院大か立教大か武蔵大か首都大・千葉大・学芸大あたりとかまあだいたいそんなあたりだよな」というような「選択前提群」の候補というものがあると良い。問題はむしろその前提から選ぶ前の段階の「そもそも社会学にするかどうか」という点のほうになる。

「〇〇学」にするか「××学」にするか、という選択を高校生が行なうことはさらに一段と絶望的に難しいし、絶対にやめた方がいい、と言いたいところがある。高校生に可能なやり方としては、ともかく何冊もの学術的著作を並べてみて、その中で相性の良い著者の分野を選ぶ、ということだ。自説の正当化の方法や語り口など、そういった事柄への相性・好き嫌いで決めて構わない。その方が良いくらいだ。そしてその著者が、別の著作の中で「自分の所属する分野」の悪口を書きまくっている人や、その中での異端児ではないことを確認しておくこと、までだ。異端児でないかどうかの確認は当人の書いたものでするより、同業者の書いた他の本でするほうが良いので、この確認にも限度はある。

高校生にできるのは、自分の関心を深めることではない。というか、「考えればわかること」に関してはいくらでも深めることが可能なのだが、たいていの場合「調べないとわからないこと」であり、そちらは高校生のうちは無理だ。だから、可能なことはむしろ「自分の関心をどのように位置づけるか」までだ。学問は多くの関心の束である。その多くの関心のなかで、自分の関心がどのような位置に位置づけられるか、そのことを解明しておくこと、これが高校生にまだしも可能な課題である。なぜ可能かと言えば、「概論書」にでも記載されている常識レベルの関心と照合すればいいからだ。そして、それをまとめたものが「調べ学習」ふうの文章にまとめられればなお良い。そのためには、相当多くの事柄を圧縮した形で高校生のための情報として提供される必要もある。当プロジェクトの今後の課題としたい。


2017-01-31 子供の語彙習得を俯瞰する

この文章は追加修正を予告なく行なうことがありえます。

この文章は、文自体の理解についてまず分類の続編にあたるもので、「文+状況」の全体を考える文の理解について扱っております。

子供の語彙習得について概観を得ておくために、独自見解を中心にまとめておく。さて、語彙の習得は1か0かみたいな話ではなく、終わりのない過程であると言いうるところがある。理由の一つは、日本語自体が日々少しずつ変化しているということである。別の重要な理由としては、語彙を習得するときに「その言い方は誤り」「語のその理解は誤り」という見本があってそれを回避する、という仕方で学習することは少ないというものだ。つまり、誤りに関して「免疫」があまりつかないので、単に「こういう表現もできる」という習得段階にとどまることが多いわけだ。また別の理由(というか事情)として、「他人がその語彙を使っているのを理解できる」段階と「自分がその語彙を使えるようになる」段階との間にも違いがあるし、この二つは一挙には達成されず、前の段階を経て、その後いつの間に後の段階も達成しているという形になることが多い、だからそういうわけで語彙の習得自体はかなり長期にわたった複雑な過程であるだろう…というものがある。このように語彙の習得は考慮すべき事情がいろいろあり、一筋縄では行かない。なのでここでは、最初のまず「他人がその語彙を使っているのを理解できる」という獲得段階にとりわけ関心を払って考えてみる。換言すれば「こういう言い方もできる」ということを言い方自体とともに獲得する段階である。

例を挙げる。「ボールを掴む」「チャンスを掴む」「コツを掴む」という語句の各々において、「掴む」の内容は大きく異なる。とりわけ、これらの語句を獲得する段階の子供の側から見ると、大きく異なると云える。

まず「ボールを掴む」という語句を理解するためには、直示的教示を行なえば良い。つまり、ボールの実物を子供に提示し、それを養育者が実際に手でつかんでみせるということをすれば良い。あるいは、その映像やアニメや絵でも構わない。ここで直示的教示に伴う哲学的懐疑を提案することは、もちろん可能ではある。だが他に方法は無いし、たいていの場合なぜだかこの語彙獲得はうまくいくものなのだ。なお、ここでは「手で掴む」ことに無理のない大きさのボールのみを対象に想定することにする。で、このようなタイプの動作を表す動詞を筆者は「特定動作動詞」と呼んでいる。

なお補足しておくと、「ボールを掴む」という動作は目的をもった活動の過程であり、その続きがあることを示唆することが重要かも知れない。たとえば「ボールを投げる」ための過程として行なわれることを示唆する、ということである。

もう一つ補足しておく。人間のようなものの「動作」を表す「特定動作動詞」と同様の習得を子供がするものとして、物質・物体のようなものの「物理的運動・反応・状態」を表す「特定状態動詞」も想定できる。「物質としての人間」の状態もこちらに含めて良い。習得のしかたのパターンも「特定動作動詞」に準ずる。

次に「チャンスを掴む」という語句の獲得である。「チャンス」というのが物理的状態ではなく、言語的(あるいは規範的)な状態である以上、「チャンスを掴む」というのも物理的な動作の物理的なあり方によって規定されているわけではない。が、かと言って、物理的な身体動作として現出しないというわけでもない。「チャンスを掴む」という語句に対応する物理的身体動作や付随する物質の運動は多くの場合、個々の場面に応じて事後的になら指摘可能である。このようなタイプの動作を呼ぶ語彙を、筆者は「不特定動作動詞」と名づけ、語彙獲得に関わる話題の際に注意を促している。これはつまり、何らかの動作を伴うことはほぼ間違いないが、かと言って動作そのものには別の名前や呼び方があり、その動作の固有性によって呼ばれるわけではない、という、そういう動詞的表現を呼ぶわけだ。かと言って、その動作は動詞内容の単なる手段というわけでもない。つまり、動作が指す状態はあくまで動詞の意味する行為・活動の過程の一部であって、目的に対する手段という位置づけとは異なる。

さて、このような「不特定動作動詞」のような語彙は、直示的教示のような仕方で子供が学習することは決して多くはないだろう。というのも、たとえば「チャンス」が言語的・規範的な対象である以上、「チャンスを掴む」というのも、「これがチャンスを掴むという動作だよ」というふうに教えられるのではなく、むしろ「チャンスを掴もう!」という勧誘文や命令文で最初に学ぶことが多いのだ。要するに学習の場面は、物理や知覚の水準ではなく、文意や規範の水準で行なわれ、それは勧誘・依頼・命令だったりすることも多いわけだ。で、最初に見本を示されて学習する語というのではなく、最初からその語を含む文がブラックボックスとして提示され、「まずは対応せよ」を求められることが少なくないわけだ。あるいはまた、不特定動作動詞は、巧妙なデフォルメをほどこしたアニメやマンガやイラストあるいは文学作品によって学習されることもあるだろう。規範的・言語的な概念なので、記号化した物語のようなものからの方が、「現実の社会的行為」からよりも、的確に習得できる可能性があるのである。

なお、念のため付記しておくと、「チャンスを掴もう」と勧められた場合や「チャンスを掴むぞ」と宣言した場合に、「チャンスを掴む」ための手段としての行為のほうこそを行なうのはむろん適切である。というのも、そもそも実際にチャンスを掴むまでは、何がチャンスを掴む行為であり、何がそのための手段であったかは不確定であり、その区別は事後的なものだからである。

そして次に「コツを掴む」という語句の獲得である。「コツを掴む」という語句は「コツを掴んだ、と当人が信じている」と「第三者が判断してコツを掴んだことになっている」との言わば合成のような語句である。すなわち「当人が信じている」ことと「第三者が判断してそのようになっている」こととが、ともに一定程度満たされていることが必要であるだろう語句である。第三者視点の必要性に関しては先の「不特定動作動詞」と共通なので、この動詞的表現の固有の問題は前者の「当人が信じている」という条件のほうにある。こちらの当人条件が求められるタイプの動詞的表現を「心的動詞」とでも呼んでおく。「心的動詞」の内容は身体動作ではない。また「苦しむ」のように「第三者判断」を要さない心的動詞もある。ただ、とは言え、「信じている」もまた二義的である。一つは「“コツを掴んだ!”という心的印象が生起したことを知っている」という点を満たしている場合がある。もう一つは「“コツを掴んだ”という心的印象の記憶は特に無いが、“コツを掴んだ”状態に自身があるということを当人が信じている」という場合である。いずれにせよ、これらの条件を満たしているかは第三者からは推測はできても観察はできない。身体動作を指すわけではないからだ。したがって他人がこれらを満たしていることを子供が直示によって学習することにも大いに限界がある。と言うか、むしろ直示によっては学習できないし、観察もできないし推測をするしかない、ということをも含めて学習するのこそが正しい学習だと言いうるほどである。そこで他の学習する機会は二パターンあり、一つは自分が当人条件を満たしているときに、養育者が適切な示唆を与えることである。もう一つは、文学作品や体験談あるいは巧妙なマンガ・アニメから「他人の心の中・頭の中の描写」を与えられ、それを通じて学習することである。

これにあと「発文動詞」という筆者の造語した類型を加えておけば、だいたいの動詞的表現はこれまでのどれかに分類できる。「発文動詞」とは言語を(単なる音ではなく)言語として発する、という事態を指すことのできる動詞を指し、その多くは音声言語・文字言語を問わず使うことが可能なため、大まかには「不特定動作動詞」の下位類型としておくのが良いだろう。音声を発するのと文字を書いたり打ったりするのとでは動作がまったく異なるが、行為としては同じようなことをやっている、と言えるからだ。さて、ここでは「発文動詞」は、「発文専用動詞」「発文可能動詞」とを区別せずに扱っている。これらもまた筆者の独自概念だが、前者は言語を発するときに限って適用される動詞であり、後者は言語を発するときに適用してもよい動詞である。子供が語彙を習得する段階ではこの区別は全く不要だが、その後場合によっては必要になることも無いではない。たとえば「顧客の要望にこたえる」は「答える」なのか「応える」なのか表記を区別したほうが良いと考えるときに、この区別がレリバントになっていると言える。「答える」なら発文専用動詞であるが、「応える」ならば発文可能動詞であり、またむしろ不特定動作動詞であるからだ。あるいは「怒る」や「喜ぶ」は、子供が習得するときにはまずは発文動詞として習得するが、その後これらは単なる発文可能動詞だったり、あるいは心的動詞だったりすることが子供の社会化の発達につれてわかってくる。つまり、人は怒ったり喜んだりするとき言語を発するとはまったく限らない、ということを子供は学ぶわけだ。そして、しかし最初は言語を発する場合で学ぶことになることが多い、というわけだ。

「発文動詞」を子供がどのようにして習得するのか、などもちろん推察しかできない。ただ概して言えば、「発文可能動詞」は訓読みをもつものがいくぶん多いのに対して、「発文専用動詞」は「漢字熟語名詞+する」といったものが多い。そのため、子供は「発文可能動詞」を先に獲得し、かなり長じてからようやく「発文専用動詞」を、対応する漢字熟語名詞の獲得後に獲得することになるだろう。―とそのように推察できる。そもそもコミュニケーションを記述描写する語である発文動詞を、自身がコミュニケーションが十全にできないうちに「習得」などできるはずもなく、あるいはまた「初期の獲得」にしてもその「必要性」「緊急性」は比較的低い。ようするにコミュニケーションできるようになることのほうが子供の発達課題であり、それを記述描写できるようになることはそれより以降の課題だと言えるのである。ただしそれは子供の周囲の環境の養育者がきちんと「手加減」できる者である場合に限られる、とは言える。たとえば国語科や作文教室での「マンガ作文」を教える教師がその「きちんとした手加減」ができる定見があるとは全く限らない、とは言える。

そして、動作の不在を示す「無動作動詞」(造語)を以上に加えておくと、筆者の分類の意図がより伝わると思う。以下に大まかな関係図と例を挙げる。ただし現実には、一つの同じ動詞が複数の分類にまたがると言いうる点もあるし、動詞の用法が複数化していることもある。以下はあくまで概要である。要は、子供の語彙獲得が、まず「身体動作と物理状態」の観察から開始するのが容易なはずであり、ではその後にどのような語彙獲得が課題になるのかを示す、という観点からの分類なのである。あるいは、五味太郎氏の絵本『うごきのことば 言葉図鑑( 1)』(amazon)で扱われているのが、主に特定動作動詞と喜怒哀楽(→顔の表情という身体動作に現われている)に関する動詞が中心であり、その他がいくぶんこじつけであるのに対し、その先にある発達課題を提示した一案とも、この文は位置づけられる。

なお、「行く」と「帰る」の違い、「行く」と「来る」の違い、「もらう」と「あげる」の違いなどは、今回考慮に積極的に入れていない。ただしこの区分が自己と他者の区別という規範的なものである以上、これらの動詞は不特定動作動詞に入れるのが適切であるように思う。

  • 特定動作動詞(例:ボールを掴む、歩く、泳ぐ、座る、食べる、見つめる)
    • 特定状態動詞(例:燃える、落ちる、回る、伸びる、太る)
  • 不特定動作動詞(例・チャンスを掴む、調べる、練習する、処分する、まねする、運ぶ、殺す)
    • 無動作動詞(例:怠ける、無視する、沈黙する)
    • 発文可能動詞(例:挨拶する、拒否する、阻止する、対応する、なお、「怒る」「喜ぶ」「悲しむ」「笑う」「驚く」も当初は発文可能動詞として習得され、のちに心的動詞の用法とに分化する、つまり「行為として怒る」と「精神的に怒る」との二用法をもつ二義語となる)
    • 発文専用動詞(例:論じる、返事する、紹介する、ほめる、言及する)
  • 心的動詞(例:コツを掴む、賛成する、好む、想像する、考える、味わう、読む(、見える))

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