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2018-01-09 首都圏における寿命の地域格差の整理(修正あり)

厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課による「平成22年市区町村別生命表」(URL)に依拠して、首都圏における寿命の地域格差を整理しておく。

寿命に市区町村による「差」があるとしても、それが格差と呼びうるものかどうかは俄かにはわからない。だが、その差が「経済」や「教育」における地域差や「自然災害リスク」の地域差と連動しているように見えれば、それは格差である疑いが強い。そして、その疑いは直観的には明らかであると言いうるケースがままある。

寿命の地域差と、「自然災害リスク」の地域差が連動しているかどうかの推定は、「同じくらいの寿命」である地域どうしが地理的に隣接しているかどうか、を見ることで、ある程度可能になる。住民の平均寿命が同じくらいの地域どうしが隣接しており、「より広大な地域」を形成している場合、その平均寿命と自然災害リスクとには関係がある、と推定して良い理由になる。

以下、首都圏というよりは、東京都・千葉県・埼玉県・神奈川県の市区町村から、「上位」と「下位」を抽出し整理する。

「寿命の長い」市区町村

男性と女性の平均寿命が両方とも、ある程度以上「長い」市区町村を隣接関係に基づいて分類すると、以下の表のようになる。

範域1
  • 東久留米市(男81.1 女87.1)
  • 小平市(男80.9 女87.1)
  • 西東京市(男80.8 女86.8)
  • 国立市(男80.8 女86.8)
  • 国分寺市(男80.8 女87.1)
  • 小金井市(男81.8 女87.0)
  • 三鷹市(男80.6 女87.6)
  • 武蔵野市(男80.9 女86.8)
  • 東京都杉並区(男81.9 女88.2)
  • 東京都世田谷区(男81.2 女87.5)
  • 東京都目黒区(男81.5 女87.7)
  • 川崎市多摩区(男81.1 女87.5)
  • 川崎市麻生区(男81.2 女87.7)
  • 川崎市宮前区(男82.1 女87.4)
  • 横浜市青葉区(男81.9 女88.0)
  • 横浜市都筑区(男82.1 女87.5)
  • 横浜市港北区(男80.7 女87.1)
  • 横浜市緑区(男80.6 女87.8)
  • 町田市(男81.1 女87.1)
  • 多摩市(男81.5 女87.2)
  • 相模原市(男80.5 女86.9)
  • 座間市(男80.8 女86.8)
  • 横浜市旭区(男80.6 女87.2)
  • 横浜市戸塚区(男80.8 女87.3)
  • 横浜市港南区(男81.3 女87.0)
  • 横浜市金沢区(男81.1 女87.0)
  • 横浜市栄区(男80.9 女86.9)
  • 鎌倉市(男81.1 女86.9)
  • 横浜市泉区(男80.9 女87.7)
  • 藤沢市(男80.7 女86.9)
  • 綾瀬市(男80.5 女86.9)
範域2
  • 柏市(男80.8 女87.2)
  • 白井市(男80.5 女87.0)
範域3
  • さいたま市浦和区(男80.7 女87.0)
範域4
  • 入間郡三芳町(男80.6 女86.9)
範域5
  • 三浦郡葉山町(男81.0 女87.0)
範域6
  • 足柄上郡開成町(男81.0 女88.1)

「寿命の短い」市区町村

男性と女性の平均寿命が両方とも、ある程度以上「短い」市区町村を隣接関係に基づいて分類すると、以下の表のようになる。

範域1
  • 鳩ケ谷市(男79.0 女85.4)
  • 川口市(男79.0 女85.8)
  • 東京都北区(男79.0 女85.5)
  • 東京都足立区(男78.5 女85.4)
  • 東京都荒川区(男77.8 女85.8)
  • 東京都台東区(男77.9 女85.6)
  • 東京都墨田区(男78.1 女85.7)
  • 東京都江東区(男78.6 女85.4)
  • 東京都江戸川区(男78.6 女85.4)
範域2
  • 熊谷市(男79.3 女85.2)
  • 行田市(男79.1 女85.5)
  • 羽生市(男78.7 女85.7)
  • 加須市(男79.2 女85.0)
  • 東松山市(男79.4 女85.0)
  • 比企郡嵐山町(男78.7 女85.4)
  • 比企郡ときがわ町(男79.4 女85.2)
範域3
  • 本庄市(男79.0 女85.6)
  • 児玉郡美里町(男79.4 女85.7)
  • 児玉郡神川町(男78.7 女85.2)
  • 秩父郡長瀞町(男79.3 女85.7)
  • 秩父郡皆野町(男79.0 女85.3)
  • 秩父市(男78.8 女85.1)
  • 秩父郡横瀬町(男79.4 女85.5)
範域4
  • 西多摩郡瑞穂町(男78.9 女85.8)
  • 福生市(男78.8 女85.8)
範域5
  • 横浜市中区(男77.1 女85.6)
  • 横浜市南区(男78.5 女85.6)
範域6
  • 銚子市(男77.8 女84.9)
範域7
  • 勝浦市(男79.3 女85.8)
範域8
  • 八街市(男78.7 女85.0)
範域9
  • 市原市(男78.9 女85.7)
範域10
  • 大島町(男79.3 女85.7)
範域11
  • 野田市(男78.4 女85.8)
範域12
  • 北本市(男79.3 女85.8)
範域13
  • 西多摩郡檜原村(男79.0 女85.7)
範域14
  • 西多摩郡日の出町(男79.1 女85.1)
範域15
  • 横浜市鶴見区(男78.7 女85.6)
範域16
  • 横須賀市(男79.4 女85.6)


2018-01-13 首都圏における大卒率の地域格差の整理

『【都道府県】貴志原の情報局【市区町村】』「首都圏学歴マップ&ランキング」(URL)に依拠して、首都圏における大卒率の地域格差を整理しておく。これによると、2005年の国勢調査に基づく数値であり、数値の表す内容は2000年のものであるようだ。

以下、首都圏というよりは、東京都・千葉県・埼玉県・神奈川県の市区から、「上位」と「下位」を抽出し整理する。町村は掲載されていないので含まれない

「大卒率の高い」市区

住民大卒率の高い市区を隣接関係に基づいて分類すると、以下の表のようになる。

範域1
  • 東京都中央区 42.4
  • 東京都千代田区 49.5
  • 東京都文京区 50.6
  • 東京都新宿区 42.6
  • 東京都港区 44.5
  • 東京都渋谷区 47.6
  • 東京都中野区 47.2
  • 東京都練馬区 42.8
  • 東京都杉並区 50.3
  • 東京都目黒区 50.8
  • 東京都世田谷区 51.2
  • 和光市 41.6
  • 西東京市 43.2
  • 小平市 44.5
  • 国分寺市 51.4
  • 国立市 46.9
  • 日野市 43.9
  • 府中市 40.9
  • 小金井市 52.3
  • 三鷹市 43.8
  • 武蔵野市 54.6
  • 調布市 44.3
  • 狛江市 45.2
  • 川崎市多摩区 48.1
  • 川崎市麻生区 53.1
  • 町田市 42.7
  • 多摩市 46.0
  • 横浜市青葉区 58.8
  • 横浜市緑区 40.4
  • 川崎市宮前区 48.2
  • 川崎市高津区 41.6
  • 横浜市都筑区 48.5
  • 横浜市港北区 48.8
  • 川崎市中原区 43.0
範域2
  • 横浜市戸塚区 41.3
  • 横浜市港南区 40.4
  • 横浜市栄区 43.2
  • 横浜市金沢区 44.0
  • 鎌倉市 50.6
  • 逗子市 48.2
  • 藤沢市 41.1
  • 茅ヶ崎市 40.4
範域3
  • 印西市 40.6
  • 我孫子市 42.8
範域4
  • 流山市 40.2
範域5
  • 千葉市美浜区 43.9
  • 習志野市 43.0
範域6
  • 市川市 41.6
  • 浦安市 48.5

「大卒率の低い」市区

住民大卒率の低い市区を隣接関係に基づいて分類すると、以下の表のようになる。

範域1
  • 銚子市 12.5
  • 旭市 13.4
  • 匝瑳市 13.9
  • 香取市 14.6
  • 成田市 29.3
  • 富里市 24.2
  • 八街市 19.1
  • 山武市 17.3
  • 東金市 23.1
範域2
  • 茂原市 24.3
  • 市原市 23.2
  • 袖ヶ浦市 20.2
  • 木更津市 19.2
  • 君津市 15.9
  • 富津市 12.7
  • 鴨川市 16.6
  • 勝浦市 13.3
  • いすみ市 15.8
  • 南房総市 12.1
  • 館山市 16.7
範域3
  • 幸手市 24.5
  • 野田市 25.6
  • 春日部市 29.0
  • さいたま市岩槻区 25.8
  • 吉川市 24.9
  • 三郷市 25.4
  • 八潮市 17.1
  • 草加市 28.5
  • 鳩ヶ谷市 22.1
  • 川口市 28.9
  • 東京都足立区 23.8
  • 東京都葛飾区 27.9
  • 東京都墨田区 28.5
  • 東京都江戸川区 29.4
  • 東京都荒川区 26.9
範域4
  • 本庄市 22.3
  • 深谷市 22.4
  • 熊谷市 25.8
  • 行田市 22.9
  • 羽生市 21.0
  • 加須市 24.3
範域5
  • 秩父市 16.4
  • 飯能市 26.7
  • 日高市 26.5
  • 青梅市 26.5
  • あきる野市 26.7
  • 福生市 28.8
  • 武蔵村山市 23.3
範域6
  • 川崎市川崎区 23.7
  • 川崎市幸区 29.6
範域7
  • 綾瀬市 26.4
範域8
  • 横須賀市 27.6
  • 三浦市 20.1
範域9
  • 小田原市 29.4
  • 南足柄市 26.9

2018-01-15 首都圏における「大卒率×平均寿命」の地域格差の整理

厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課による「平成22年市区町村別生命表」(URL)および『【都道府県】貴志原の情報局【市区町村】』「首都圏学歴マップ&ランキング」(URL)に依拠して、首都圏における寿命と大卒率の地域格差を整理しておく。

「住民の寿命が長く大卒率の高い」市区

男性と女性の平均寿命が両方とも、ある程度以上長く、かつ、大卒率がある程度以上高い市区を隣接関係に基づいて分類すると、以下の表のようになる。

範域1
  • 西東京市(大卒率:43.2% 寿命:男80.8歳 女86.8歳)
  • 小平市(大卒率:44.5% 寿命:男80.9 女87.1)
  • 国分寺市(大卒率:51.4% 寿命:男80.8 女87.1)
  • 国立市(大卒率:46.9% 寿命:男80.8 女86.8)
  • 小金井市(大卒率:52.3% 寿命:男81.8 女87.0)
  • 三鷹市(大卒率:43.8% 寿命:男80.6 女87.6)
  • 武蔵野市(大卒率:54.6% 寿命:男80.9 女86.8)
  • 東京都杉並区(大卒率:50.3% 寿命:男81.9 女88.2)
  • 東京都世田谷区(大卒率:51.2% 寿命:男81.2 女87.5)
  • 東京都目黒区(大卒率:50.8% 寿命:男81.5 女87.7)
  • 川崎市多摩区(大卒率:48.1% 寿命:男81.1 女87.5)
  • 川崎市麻生区(大卒率:53.1% 寿命:男81.2 女87.7)
  • 町田市(大卒率:42.7% 寿命:男81.1 女87.1)
  • 多摩市(大卒率:46.0% 寿命:男81.5 女87.2)
  • 横浜市青葉区(大卒率:58.8% 寿命:男81.9 女88.0)
  • 横浜市緑区(大卒率:40.4% 寿命:男80.6 女87.8)
  • 川崎市宮前区(大卒率:48.2% 寿命:男82.1 女87.4)
  • 横浜市都筑区(大卒率:48.5% 寿命:男82.1 女87.5)
  • 横浜市港北区(大卒率:48.8% 寿命:男80.7 女87.1)
範域2
  • 横浜市戸塚区(大卒率:41.3% 寿命:男80.8 女87.3)
  • 横浜市港南区(大卒率:40.4% 寿命:男81.3 女87.0)
  • 横浜市栄区(大卒率:43.2% 寿命:男80.9 女86.9)
  • 横浜市金沢区(大卒率:44.0% 寿命:男81.1 女87.0)
  • 鎌倉市(大卒率:50.6% 寿命:男81.1 女86.9)
  • 藤沢市(大卒率:41.1% 寿命:男80.7 女86.9)

「住民の寿命が短く大卒率の低い」市区

男性と女性の平均寿命が両方とも、ある程度以上短く、かつ、大卒率がある程度以上低い市区を隣接関係に基づいて分類すると、以下の表のようになる。

範域1
  • 鳩ケ谷市(大卒率:22.1% 寿命:男79.0 女85.4)
  • 川口市(大卒率:28.9% 寿命:男79.0 女85.8)
  • 東京都足立区(大卒率:23.8% 寿命:男78.5 女85.4)
  • 東京都墨田区(大卒率:28.5% 寿命:男78.1 女85.7)
  • 東京都江戸川区(大卒率:29.4% 寿命:男78.6 女85.4)
  • 東京都荒川区(大卒率:26.9% 寿命:男77.8 女85.8)
範域2
  • 熊谷市(大卒率:25.8% 寿命:男79.3 女85.2)
  • 行田市(大卒率:22.9% 寿命:男79.1 女85.5)
  • 羽生市(大卒率:21.0% 寿命:男78.7 女85.7)
  • 加須市(大卒率:24.3% 寿命:男79.2 女85.0)
範域3
  • 銚子市(大卒率:12.5% 寿命:男77.8 女84.9)
範域4
  • 八街市(大卒率:19.1% 寿命:男78.7 女85.0)
範域5
  • 市原市(大卒率:23.2% 寿命:男78.9 女85.7)
範域6
  • 勝浦市(大卒率:13.3% 寿命:男79.3 女85.8)
範域7
  • 本庄市(大卒率:22.3% 寿命:男79.0 女85.6)
範域8
  • 秩父市(大卒率:16.4% 寿命:男78.8 女85.1)
範域9
  • 福生市(大卒率:28.8% 寿命:男78.8 女85.8)
範域10
  • 横須賀市(大卒率:27.6% 寿命:男79.4 女85.6)

簡単な総括

きわめて大まかとは言え、住民の大卒率と寿命との「掛け合わせ」で分類しても、一定程度「地理的な隣接関係」を見いだすことができる。もちろん、大卒率のほうの「データ」が町村を扱っていないため限界があるが、それにもかかわらず、というわけだ。このことからも、行政区分とは別に「地形」という自然的要因が、寿命やさらには大卒率にも一定程度影響を与えていることが推察される。もちろん「地形」(≒自然災害リスク)という自然的要因は「地価」にも影響を及ぼすので、そこに介在する要因や条件の一つが「経済的負担」であることは間違いないだろう。

なお、「大卒率は低い」かつ「平均寿命は高い」という市区が一つだけあった。神奈川県綾瀬市である(大卒率:26.4% 寿命:男80.5 女86.9)。この地域の最大の特徴は言うまでもなく「米軍基地」(厚木海軍飛行場)の存在である。この市がなぜ平均寿命が高いのか、平均寿命が高くなりそうな者がわざわざ老後に居住する地として選択するのか、その原因を把握することが地域格差を把握するための一つの方途ではないかと思う。なお筆者の勝手な推断を一つだけ記せば「耳が遠い老人には軍用飛行機の騒音は気にならないので、寿命には影響しにくい」というものだ。これを上回る仮説を打ち出すことが求められると言えるだろう。要するに綾瀬市は自然的要因では快適で健康的なはずの地域なのだが、軍基地の存在によって多くの人にとってはむしろ住むのが不快な地域になってしまっていて、だから大卒率の高い者が敢えてあまり住もうとは思わないが、耳の遠い老人ならば住むのが苦痛ではなく自然環境などもなかなか良い地域である、という仮説なわけだ。


2018-01-23 1980年代首都圏中学受験 「男女優秀地域」の抽出

1980年代に、男子も女子もともに「難関中学」に合格している学区を「警察署の管轄域」ごとに集計し、その「上位」を地理的隣接関係に基づいて分類した。

「男女の対等」という事項が家庭の「文化資本の格差」の一要素になっているという疑惑があり、その問題意識から出現した今回の集計である。「男女の対等」が家庭において発現する場合、「父と母との対等関係」という形になることがまずは想定可能であり、その「対等関係」から来るコミュニケーション傾向が子供の「文化資本」ともなり、更にはその多寡が「格差」の一因にもなるだろう、という推測の上に推測を重ねたような仮定である。もっとも、その傾向が即座に「男子も女子も難関校に合格する」という結果になるとは無論全く限らない。単に「男子も女子も難関校に合格する」地域ならばそのような家庭が多いだろう、というこれまた推測に過ぎない。

「男女の対等」の基準として想定することができる候補には、「男女差が小さい」という事態と、「男女とも絶対値が(あまり)小さくない」という事態とがある。今回は後者の基準を採用した。なぜなら、「絶対値が小さくない」場合のほうが、現実に影響をもつからである。ようするに「優秀な異性が実在した」という経験をもつ者が一定数いることを保証できるわけだ。それに対して「男女差が小さい」だけだと、要するに絶対数が少ない学区のほうが単に確率的にそうなりやすいだけである。だから「差が小さい」ことに積極的な意味があまり無い。したがって現実に影響をもつ効果はあまり期待できない。なので、こちらを基準として用いることは今回はしていない。

早い話「合格者の絶対値」が大きい学区が選ばれやすいような基準を用いている、と言っても良いと思う。ただしいくつかの署域は「割を食った」格好になっている。たとえば板橋区や江戸川区といったあたりが「割を食った」。これらの中には合格者の「絶対値」は多くとも、どちらか片方の性の合格者が絶対値として小さいという学区の割合が多かったのだ。

「男子も女子も難関校に合格する」ということが、どのような原因や結果と関係をもつのかはにわかには判定しづらい。大まかに言って「生徒の所属階層のひどく高い」地域だと「女子の合格者が男子に比較してかなり少ない」傾向が、ときどき散見される。この種の地域は公立に進学してもさほど「心配」が無いからだろう。こういう地域だと男子ばかりがやたら合格していることがある。ただしその逆は保証できない(つまり、男子ばかり合格する地域は所属階層がひどく高い、とは全く断定できない)。また反面、「治安の悪そうな」地域だと「女子ばかり合格しており男子の合格者が少ない」傾向がときどきある。要は女子だと公立中学進学を絶対に回避したいのだが「勢い余って」なぜか難関校に受かってしまった、といった事象が起きやすいタイプの地域である。この時代の女子の難関校は、出題内容が男子に比較して「易しい出題を素早く、またとりこぼさず得点する」ほうに幾分寄っているので、「勢い余って」の合格もありうるように思える。と、このように、「男女ともに難関校に合格する」わけではない地域というのがそれなりにいろいろであるので、その否定形である「男女ともに難関校に合格する」という地域も「男女の平等が体現された地域である」と単純に即断することなど到底できない。あくまで「優秀な異性が存在するという経験」をもつ者が確率的に多いだろう、ということでしかない。それが「男女の対等の体現」であるかはまた、議論の余地がいくらでもあろう。このことは確認しておこう。

筆者がここで前提している事柄は実はかなり、世間の良識に逆らったものを含んでいる。というのも、通常ならば、「男女ともに難関校に合格する」学区というのは、中学受験ということに加熱した地域であり、この1980年代ごろなら「受験競争の病理」とでも定式化されるような状態である。しかし、その「病理」は同時に「優秀な異性が世の中に存在する」ということの認識を伴うものであり、また、「男女ともに対等に活躍する」ことを許容する文化傾向を併せ持つ可能性をもつものであった。つまり「周囲に難関校合格者の多い環境」で育った者は、また「優秀な異性が存在する」という社会感覚をもつ可能性が高い。反対に「周囲に難関校合格者の少ない環境」で育った者は、家庭環境がそうでなければ、「優秀な異性が存在する」という社会感覚をもつことが難しいことも多い。その点で、「男女ともに難関校に合格する」学区のほうが「良い環境」である、という一面を筆者は少し強調したいのである。そしてこれは当時でも、そしておそらく現在でも常識にかなり逆らった見方でもあるのだ。たとえば通常だと、「周囲に難関校合格者の少ない環境」で独力で努力することのほうが称揚されやすいわけだが、そこには「優秀な異性が世の中に存在する」ということの認識を伴わない、というリスクがあるわけだ。

難関校として男子は「開成、麻布、武蔵、筑駒、栄光」を、女子は「桜蔭、女子学院、雙葉、フェリス」を採用した。実はこの段階でもすでに男女の間に差があり、女子の難関校は男子のそれと同じ意味合いの学校ではあまりない。要するに、女子の難関校はこの時代には、「開成、麻布、武蔵、筑駒、栄光」と結婚できるОLになれる確率の高い学校、という意味合いでしかない。女子が一流会社に就職するのはそこで働くためではなく、そこで働く男性と結婚するために過ぎなかったわけだ。この時代はまだ、女子の難関校は十分に成熟した選択肢にはなっていない、というべきであり、あくまで相対的なものに過ぎない。この時代でも女子は調査対象の学校を変えれば、結果が変わることもありうる。特に社会科教育に着目しての調査対象選択は一考に値するようにも思う。

なお、東大に男女とも大量に合格する学芸大附属高校というコクリツ高校があるが、その附属中学は、附属高校に約半分しか進学できないと言われている。なので、その附属中学を「難関校」として扱うことには、筆者にはかなり強い抵抗があった。なぜならその進学システム自体が「第一志望に落ちた」子でないと進学したくないようなものであるため、ここに進学する子供は「やむをえず」の子が多い筈であると推察できるからだ(第一志望に落ちた子か、学費が少しでも安い方が良い子)。

最後に調査資料とその処理について簡単に説明する。東京に本拠地のある四谷大塚進学教室の合格者名簿の1982・83・85・86・87年を用いた。各公立小学校の合格者数を集計する。その際、同一人物の複数校合格は除外し、対象校のうち何校に合格しようとも一校分として計算する。1987年のいわゆる「サンデーショック」による大量の複数合格ももちろん同様にして処理している。また居住市区からして明らかに越境入学だと思える場合は、その合格者は除外する。理由はこの調査の争点がその学区に居住可能かどうかであるからだ。小学校のほうが属する管轄署で分類し、署ごとに分類する。つまり合格者ひとりひとりに照準した場合、通学域のほうと全く同じ管轄署で算出されているとは限らない。

管轄署ごとに、合格者数が「男子2名、女子2名以上」であるような公立小学校を抽出し、それらの署域ごとの合計を求める。署域ごとの合計が「男子3名、女子3名以上」になる署のみ、調査対象として抽出する。ただし、神奈川県の栄光とフェリスの判明合格者数が、東京の学校のそれに比べて著しく少ないため、目安として「横浜駅以西」の署域に関しては、「男子2名、女子2名以上」を調査対象というふうに基準を少し切り下げる。この地域はおそらく四谷大塚ではなく「日能研」の特権的なエリアなのだ。

補足として、この時代の四谷大塚進学教室のシステムと、調査目的とのかかわりについて述べよう。四谷大塚進学教室は五年時は違うが、六年生になると「Cコース」という上位生徒用のコースを設け、そこでは「男女比」が推定で「6:1」とか「7:1」程度になり、圧倒的に男子が多い。なおかつ、同じ試験問題を用いている試験であるにもかかわらず、男女別に順位表を作成し、「男子と女子とが同一平面上で比較される」機会が無くなる。なので、このCコースで一年間を過ごすと、「優秀な男子のほうが女子よりも何倍も存在する」ような印象を形成することになり、また、「男子と女子とが直接比較される」機会も無いことになる。なお、修了時に女子生徒は「総代」(卒業証書授与)までしかなることができず、「謝辞を読む」者は必ず男子生徒になる。「男子と女子とが直接比較される」機会を作らないため、このような「不平等」も可能なのである。なので、四谷大塚進学教室で過ごした者に関しては、とりわけ「所属する居住地域や小学校」での「優秀な異性の存在」経験の有無は重要になる。

範域1
  • 東京文京駒込(男3 女3)
  • 東京文京本富士(男26 女30)
  • 東京文京富坂(男7 女9)
  • 東京千代田麹町(男11 女12)
  • 東京新宿牛込(男14 女14)
  • 東京新宿戸塚(男15 女14)
  • 東京文京大塚(男7 女4)
  • 東京豊島巣鴨(男6 女5)
  • 東京豊島目白(男6 女5)
  • 東京練馬練馬(男40 女31)
  • 東京練馬光が丘(男8 女6)
  • 東京板橋志村(男20 女19)
  • 東京練馬石神井(男40 女39)
  • 埼玉朝霞(男11 女11)
  • 東京中野野方(男34 女36)
  • 東京田無(男5 女6)
  • 東京小金井(男9 女13)
  • 東京三鷹(男18 女17)
  • 東京武蔵野(男28 女16)
  • 東京杉並荻窪(男32 女34)
  • 東京杉並杉並(男35 女38)
  • 東京中野中野(男28 女17)
  • 東京新宿新宿(男25 女13)
  • 東京渋谷代々木(男20 女17)
  • 東京世田谷北沢(男39 女27)
  • 東京杉並高井戸(男43 女40)
  • 東京世田谷成城(男28 女34)
  • 東京調布(男10 女12)
  • 神奈川川崎多摩(男9 女6)
  • 神奈川川崎麻生(男12 女12)
  • 東京町田(男33 女27)
  • 神奈川横浜緑(男12 女5)
  • 神奈川横浜旭(男9 女7)
  • 神奈川横浜保土ケ谷(男2 女5)
  • 神奈川横浜青葉(男43 女62)
  • 神奈川川崎宮前(男21 女18)
  • 神奈川横浜都筑(男3 女4)
  • 神奈川横浜港北(男19 女18)
  • 神奈川横浜神奈川(男5 女6)
  • 東京世田谷玉川(男47 女42)
  • 東京世田谷世田谷(男22 女19)
  • 東京渋谷渋谷(男20 女13)
  • 東京渋谷原宿(男7 女5)
  • 東京港赤坂(男16 女14)
  • 東京港麻布(男17 女6)
  • 東京目黒目黒(男48 女38)
  • 東京目黒碑文谷(男23 女25)
  • 東京大田田園調布(男26 女25)
  • 東京大田池上(男20 女17)
  • 東京大田蒲田(男7 女4)
  • 東京大田大森(男6 女9)
  • 東京品川荏原(男8 女9)
  • 東京品川大井(男7 女4)
  • 東京品川大崎(男6 女5)
  • 東京品川品川(男10 女9)
  • 東京港高輪(男17 女17)
範域2
  • 千葉我孫子(男8 女4)
  • 千葉柏(男23 女18)
  • 千葉流山(男5 女7)
範域3
  • 千葉船橋東(男3 女3)
範域4
  • 千葉松戸(男9 女11)
  • 千葉市川(男31 女36)
範域5
  • 千葉浦安(男4 女8)
範域6
  • 埼玉浦和(男9 女6)
範域7
  • 東京足立綾瀬(男4 女5)
範域8
  • 東京墨田本所(男5 女10)
  • 東京江東深川(男3 女6)
  • 東京江東城東(男4 女5)
範域9
  • 神奈川横浜山手(男2 女2)
範域10
  • 神奈川横浜港南(男2 女2)
  • 神奈川横浜栄(男9 女10)
  • 神奈川鎌倉(男3 女2)
範域11
  • 神奈川葉山(男3 女2)

2018-01-25

「ハイパーメリトクラシー」時代が教育に遺した負の遺産の処理という問題がある。また、石原千秋の『評論入門のための高校入試国語』という杜撰な本に現われている「無考え」が及ぼしている負の影響の処理という問題がある。以下メモ。

「ハイパーメリトクラシー」時代には、「受験勉強・学歴社会の敵視」を含む主張が左右保革問わずなされるようになった。その際に「受験勉強の矮小化(藁人形化)」を伴った「提言」や「実践」がなされる、という不毛な事態に陥った。そこでは「知識や記憶」に対して「思考」と「理解」とを都合よく使い分けた上で対置し、その「思考や理解」の中身を運用する側が恣意的に決める、という不毛な議論や実践が行なわれた。要するに、ここでは「思考と理解の違い」という論題が真剣に追求されなかったのだ。

なお、テレビ朝日のクイズ番組である『Qさま』『ミラクルナイン』は、こういった不毛さに対して一定のオルタナティブを提示しえており(しかもそのことにある程度は自覚的でもあり)、筆者は大いに注目している。

一方、石原千秋『評論入門のための高校入試国語』には、大まかにいって「事実の主張/事実主張の検討/意見」という区分が提示され、その全域が「国語科」の守備範囲である、という態度が示されている。すなわち「説明文」で「事実主張の検討」を行ない「評論文」で「意見の形成」を行なう、という「分担」観が提示される。しかし、実際には「事実主張の検討」についてはさしたる目ぼしい内容が提示されるわけではなく、単に「説明文に書かれている内容の事実性の検討は中学校の国語教師がやるものである」という「無根拠な断定」だけが残るしくみになっている。そういうわけで、国語という教科では「事実について書かれたものを基にした意見の形成」こそが「高等学校で行なわれる高度な課題」である、というさらなる「無根拠な断定」がなされる。この主張に典型的であるような「無考え」が、悪影響なのである。

以上、まず問題の全体を鳥瞰するためのメモ。


2018-01-28 「事実」と「意見」・「知識」と「理解」

以下の論考はまだ決定的に不十分であることをお断りしておく。

ここ二十年ほどの国語科教育について検討するときに中核となるのは、おそらく「命題」という概念である。つまり「真理値をもちうる文」である。とは言え代表的であり主に取り上げられるのは、そのうちの「事実」である。「真理値をもちうる文」のなかには、「法則」や「真理」(数学の定理や、ニュートンの三法則のような自然科学の基本法則)や、ある種の「定義的命題」もあるが、たいていの場合はそれらよりは「事実」のほうが想定されていることが多い。なので、以下では、「事実」という語で、「法則」「真理」「定義」なども含めて「真理値をもちうる文」全般を想定することにする。たとえば「2018年1月28日山田太郎は犬の散歩をした」なら「事実」(過去形)である一方で、「山田太郎は週に一度は犬の散歩をする」なら「法則」(普遍的現在形)であるわけだが、どちらも一緒くたにして「事実」と呼ぶことにする、というわけだ。

「事実」と「意見」という対比

石原千秋『評論入門のための高校入試国語』(2005,日本放送出版協会)では、大まかにいって次のような区分と著者独自の特徴づけが行なわれている。すなわち、かたや、「事実」中心に書かれ、「文の真偽ではなく、文の意味・正誤」が理解できることが目指されているのが「説明文」である、他方で、「事実と意見とが錯綜して」書かれており、両者を切り分けながら読むことが目指されているのが「評論文」である。これである。そして全体的な論としては、説明文は読むのが易しく中学生向きだが、評論文は読むのが難しく高校生向きである、とでもいうように総括されている。ただしここで言う説明文を読むというのは、文意を理解するということであって、真偽を判断するということではあまりない。しかし石原はその「説明文を読むときの真偽の判断」についてはずいぶんと軽く見ており、重視はまったくしていない。またその「真偽の判断」の教育も国語科の領分だと当然視している。ともかくそういうわけで、読む課題としては「事実」よりも「意見」のほうが高度であるために高等学校の分担になっていて中学校の分担ではない、という認識が示されているわけだ。

木下是雄の「意見」と石原千秋の「意見」とが同じ意味合いなのかどうかはわからない。以前別の文章でもふれたように、木下是雄が「事実と意見とを書き分けよ」と主張するとき、その「意見」は二つの用法が混在していた。一つは「オピニオン」や「判断」といったものであり、通常「意見」と呼ばれることの多いものである。「良しあし」や「賛成反対の態度」といったものだとも言える。それに対してもう一つは「仮説」「推測」「予測」といったものであり、要は「事実に昇格する可能性のあるもの」である。これらもまた木下是雄は「意見」と呼ぶのであった。そして石原がその「事実に昇格する可能性のあるもの」のことを「意見」と呼んでいるか、そう呼ぶことを前提にして「評論文」の自説を主張しているのかどうかは、はっきりとはわからない。

ここであらためて主張しておきたいのは、「説明文を読むこと(真偽判定)が中学生向きの易しい課題である」と石原がなぜ主張できるかの理由である。それは「国語の教科書か高校入試問題の範囲内」だからである。すなわち、こうだ。大学入試とは異なり、高校入試の国語科の出題は出題する者は必ず国語科教員である。要するに、国語科教員が手に負える範囲内の説明文しか、教科書や入試では扱われない。だから「説明文の真偽の判断」に関して、石原は深く検討することなくこの書籍を出版することが許されているのだ。「国語教員有資格者により作成された教材・出題」の範囲外になれば、膨大な量の「説明文」の「真偽判断」が「国語科教員の手に負えないもの」として現出することはあまりにも明らかである。報告文や報道文、ジャーナリストによる文や自然科学の論文や記事など、きりがないほどである。また、「事実を書いた文」と、「文学作品における風景等の描写文」との違いというのも思いのほか厄介である。ともかく、この書籍では「説明文の真偽を読者が判断するという課題」について等閑視したのみならず、むしろ「容易な課題である」という読後感すら引き起こしかねないような書き方をしていて、このことが国語科教育に与えている悪影響は決して小さいものではない。概括すればその悪影響というのは「事実について検討するという課題が存在することを教えないまま、事実を書いたような恰好の文章を読んで“意見”を形成することだけを要求する」といったものになろう。

「説明文を国語科で学習する」ときにその文章の「事実性」が焦点になることは無い、ということは教わった者は皆知っている。あくまで「事実表現」を学習するだけなのだし、「小説のリアリズムの描写」と決定的に異なるものとして学習するわけでもない。だが、「説明文の読解→中学生向き」/「評論文の読解→高校生向き」と位置づけられることによって、「事実性の検討」が求められている課題ではないことを生徒が無自覚的に学び取る結果を帰結する。「この文章を読んで意見を言いなさい」と言われたときに、「良しあし」や「賛成反対」を述べることはあっても「邪馬台国は奈良県にあったとこの文章には書いてあるけど、私は福岡県だと思う」といった「事実性についての検討」は生徒からはまず出てこない。それが出てこないのは当然で、国語教師の専門ではないからだ。つまり「説明文」というのは、文章の事実性の確認をできない専門の者が分担している、というわけだ。石原のこの「説明文の読解→中学生向き」/「評論文の読解→高校生向き」という「発達段階」にはそのことへの考慮が無い。

「知識・記憶」と「思考・理解」という対比

「知識」や「記憶」という概念は「事実」概念を前提している。「Aを知っている」「Aを記憶している」というときのAが「真理値をもちえない文」だったら話にならないからだ。少し乱暴に言えば、「知識」「記憶」であるためにはAは「事実」でなければならない。そして少なくとも「事実として正しいか誤っているかのいずれかである」ような恰好をしていなければならない、わけだ。

そのことの帰結はよくわからない。だが「事実概念と知識・記憶概念との密接な関連」に因って次の対比が自然に感じられるように思わされてはしまうだろう。すなわち「説明文の学習/評論文の学習」という対比が「難易度」を前提していたようにして、「知識・記憶」/「思考・理解」もまた「難易度」を前提している、という対比だ。しかしここには考え足りない論点がある。ただここまでの「事実」概念との関連付けはまだ筆者は考えつめていないので、以下は、今までとは別の方向で話をする。

さて、素朴に考えれば「Bということを理解する」ためには、そのBを構成する要素は「知っている」必要、「記憶している」必要があるはずだ。知識や記憶が無ければ、それを必要とする「理解」も「思考」もできない。たとえば「日本語の知識」というものだけでも必要である、ということくらいはわかるはずだ。「知識・記憶」/「思考・理解」が「易/難」の段階と重なって見えるとしたら、それは前者が前提になって後者が可能になっているからにほかならない。だがそのことが時に見えにくくなる。

その見えにくさに介在している一因は「記憶」や「知識」にも段階があることだ。たとえば「記憶」にも「いつでも好きなときに思い出すことができる」というレベルのものもあれば「言われて初めて思い出すことができる」というレベルのものもある。同様に「知識」にしても「コトバでなら言える」知識もあれば「体で身に着いている」ほどの知識もある。この場合の「知識・記憶」は「言われてみればわかる」程度の弱い記憶や「コトバでなら言える」知識といった、「弱い記憶・知識」でも十分である場合も多いのだ。

「記憶」や「知識」に段階があることを捨象し、「完全な記憶・完璧な知識」のみを特に想定すれば、「知識・記憶」と「思考・理解」とは、「前提/結果」というよりは、対立する二項と位置づけうる。すなわち「一つ一つの要素は完全に記憶して知っているのに、それが素材や前提となる理解や思考だけはできない」という状態が、特に顕在化され重視される。「知識がないと理解もできない」という弊害よりもはるかに「知識があっても理解ができない」という弊害のほうばかりが重要視され、要対策とされるようになる。「ハイパーメリトクラシー」化という社会現象を担っていたのは、この偏った重要視である。この偏りとは、「選別される者」を考慮せず「選別する者」の事情ばかりを考慮したものでもある。「知識がないと思考もできない」というのは試験等で「選別される側」の問題である。それに対して、「知識があっても思考ができない」というのは試験等で「選別する側」の問題である。「選別されるべきでない者を選別してしまった」という問題である。このように、「選別する側」の都合ばかりが言説として肥大化したのが、「ハイパーメリトクラシー」化のひとつの面であったわけだ。

「知っていること」と「知識」の相違

「知識」と「理解」の対立を先鋭にしている要因の一つに、「知っていること」を「知識」と呼ぶという呼称の問題がある。筆者の理解では「知っていること」≠「知識」である。「知っている」ことは「理解している」ことの前提である場合も多いわけだが、「知識」となるとむしろ「知っているけど理解していない」場合に優先的に使われる呼称となるわけだ。

戸田山和久『知識の哲学』の序章なども参考にしつつ述べると次のようになる。「私は自転車の乗り方を知っている」という発話は、戸田山によると「自転車に乗ることができる」と同義である、となるらしい。だがもしここに『自転車の乗り方』という書籍や文書が存在する場合、話はずっとややこしくなる。「私は自転車の乗り方を知っている」と述べる人がいても「知っているだけで乗れないんじゃないの?」と問うことが十分可能になるのだ。ましてや「私は自転車の乗り方の知識がある」などと言えば、それはむしろ「『自転車の乗り方』という書籍に書いてある内容を記憶しているだけで、自転車に実際は乗れない」と積極的に述べたのに近いことになる。というのも、もし乗れるのならば、「乗り方の知識がある」などという言い方はまず絶対しないからだ。ここに「知っていること」と「知識」との差がある。「知っている」の場合なら、「経験している」や「理解している」との差は多少流動的だが「知識」ならばそうでないからだ。一方、日本語で「知識」と呼ばれるとき、特に学術的な文脈や外国語の訳語を話題にしているのでもない限り、それは「書かれた文字列を知っている」であり「書かれた文字列を知っているという以上のことはない」ですらある。というのも、それ以上の場合なら、「できる」とか「理解している」と言うのに決まっているからだ。その意味では、『自転車の乗り方』という書籍が眼前にある場合は、その書籍の内容を知っている場合には、「自転車の乗り方を知っている」とは言わずに、「自転車の乗り方の知識がある」と述べる方が、通常であろう。「乗り方を知っている」だと「乗り方を理解している」ことや「乗り方を経験している」こととの区別がつきにくくなるからだ。

「知っている」と「知識がある」との日本語語用上の違いは、だからこうだ。「私は自転車の乗り方を知っている」と発話するとき、それは「自転車に乗ることができる」と同義であると見なす戸田山の見解に対して、筆者はやや異を唱えておきたい。「私は自転車の乗り方を知っている」というとき、それは「自転車に乗ることができる」以上のことをむしろ含みうる。それは「自転車の乗り方という、未だ文字列になっていないものを、自分の言葉で他人に説明可能である」という含みである。それに対して「自転車の乗り方の知識がある」の場合は、反対に「自転車の乗り方というすでに文字列になっているものを知っている。そしてそれ以上ではない」(つまり自転車に乗ることはできない)という内容を含みうる。「知識」という語は、「学習の対象」であることを意味している。だから「知識がある」という言い方は「学習の対象としてすでにあらかじめ存在しているものを、学習済みである」ことを意味する。なので「自転車に乗ることができる」と言わずにあえて「自転車の乗り方の知識がある」と発話した場合、それは学習がまだ途上であること、単に「学習対象の文字列を記憶済である」こと以上を意味できない。「乗り方の知識を記憶済であり、かつ、それを理解している」場合なら「なら理解しているとだけ言えよ」となるだろうし、「乗り方の知識があり、そして乗ることもできる」場合なら「なら乗ることができるとだけ言えよ」となる。そういうことだ。

再び「知識・記憶」と「思考・理解」という対比

上記のように定式化し直してみると、先ほどの主張「同様に「知識」にしても「コトバでなら言える」知識もあれば「体で身に着いている」ほどの知識もある。」というくだりは、修正の必要がある。すなわち幅があるのは「知っていること」であって「知識」ではない、とである。「知識」に幅があるとしてもそれは既に学習した文字列の記憶の程度という幅でしかない(再認は可能という記憶段階と再生も可能という記憶段階など)。「体で身に着けているもの」「体得したもの」を「知識」とは通常呼ばないのである。

大まかに言って「教わったこと以上のことを知っている」という場合、それは「すでに教わった知識」と「それ以上の理解」というふうに使い分けられることになる。同様にして、「文字列になっていない多くの事柄」は「知っている対象」とは扱われても、それを「知識」とは呼ばれないことになる。たとえば、「自分がどれだけの単語を知っているかを知っている」「自分がこの単語を記憶したのは何月何日かを知っている」という「自己知」「エピソード記憶」や、「相手がどれだけの知識があるかを知っている」という「知(というか他者理解)」や、あるいは「オーボエの音色を知っている」「ベビースターラーメンの味を知っている」という「知覚・感覚的知」は、そういうわけで「知識」とは通常呼ばれない。したがって「知識・記憶/理解・思考」という二分法で学習対象を分別していったとき、それらは「知っている」という動詞とは連接できても、「知識」の対象には入らない。それらは「理解」などの対象に入るのだ。

あるいは、日常的に相手の無知を非難する際には「知識が無い」とは言わず「常識が無い」などという言い方をして、「知識」と「常識」とを使い分けるという方策も見られるだろう。「知っていて当然の事柄」を「常識」と呼び、「単に知っているだけの役に立たない事柄」を「知識」と呼んで区別するというわけだ。

欧米語では「知識」というのは、「頭の中にあるもの」を指すわけだが、日本語語彙の通常の用語法では、むしろ「頭の外にあるもの」「すでに文字列化されたもの」「これから学習する対象」を指す。そして、それ以外の「頭の中にあるもの(と思われているもの)」(「理解」や「常識」など)とは区別しようとする。

学力試験にはさまざまなものがあり、「すでに文字列化したものを単純記憶して再現する」タイプのものばかりではない。だが、ハイパーメリトクラシー下の言論では、学歴取得のための試験が悉くこの「知識」再現型のものばかりであるかのように言い募り、「したがって学歴があるからといって充分ではない」と述べ、そのことによって大企業や教職の募集で「新卒採用」を大幅に削減することを正当化してきた。そのこと自体も問題であるが、その一方で「知らないことによって理解することも行動することもできない」という学習者の側の弊害からは目を逸らし続けることにも貢献してきた。「知らないから理解できない」「知らないから行動できない」という弊害のほうは無かったことにして、「知っているだけで理解はしていない」「知っているだけで行動できない」ことの弊害のほうばかりを、針小棒大に言い募ることが行なわれてきた。そのことによって、新卒の採用を削減することが可能になったと同時に、学習者の方の「知らないことによって起こっている弊害」を訴求しづらくなる、という事態も可能にしてきた。そしてその言説状況に大きく貢献してきたのが「知っていること」を「知識」と呼び変えて、その矮小化された「知識」概念を用いた概念操作によって言説を正当化する、という所作であった。


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