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準備待想

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2018-01-25

「ハイパーメリトクラシー」時代が教育に遺した負の遺産の処理という問題がある。また、石原千秋の『評論入門のための高校入試国語』という杜撰な本に現われている「無考え」が及ぼしている負の影響の処理という問題がある。以下メモ。

「ハイパーメリトクラシー」時代には、「受験勉強・学歴社会の敵視」を含む主張が左右保革問わずなされるようになった。その際に「受験勉強の矮小化(藁人形化)」を伴った「提言」や「実践」がなされる、という不毛な事態に陥った。そこでは「知識や記憶」に対して「思考」と「理解」とを都合よく使い分けた上で対置し、その「思考や理解」の中身を運用する側が恣意的に決める、という不毛な議論や実践が行なわれた。要するに、ここでは「思考と理解の違い」という論題が真剣に追求されなかったのだ。

なお、テレビ朝日のクイズ番組である『Qさま』『ミラクルナイン』は、こういった不毛さに対して一定のオルタナティブを提示しえており(しかもそのことにある程度は自覚的でもあり)、筆者は大いに注目している。

一方、石原千秋『評論入門のための高校入試国語』には、大まかにいって「事実の主張/事実主張の検討/意見」という区分が提示され、その全域が「国語科」の守備範囲である、という態度が示されている。すなわち「説明文」で「事実主張の検討」を行ない「評論文」で「意見の形成」を行なう、という「分担」観が提示される。しかし、実際には「事実主張の検討」についてはさしたる目ぼしい内容が提示されるわけではなく、単に「説明文に書かれている内容の事実性の検討は中学校の国語教師がやるものである」という「無根拠な断定」だけが残るしくみになっている。そういうわけで、国語という教科では「事実について書かれたものを基にした意見の形成」こそが「高等学校で行なわれる高度な課題」である、というさらなる「無根拠な断定」がなされる。この主張に典型的であるような「無考え」が、悪影響なのである。

以上、まず問題の全体を鳥瞰するためのメモ。


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