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はじめに

この記事は今後移転する可能性が高いことをお断りしておく。また、通知することなく、内容を増加・変更することがある。さらにまた「強調」に関してであるが、原文での様式を忠実に再現することを全く保証しない。たとえば太字・傍点・下線等の様式が忠実に再現されることは保証しない。

木村朗・高橋博子『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』

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p209-211。

一口にがんと言っても、いろいろな種類のがんがありますが、問題になるのは、死に至るほど重篤ながんです。そこで一般には、発がんのリスクではなく、生涯にわたってがんで死亡するリスク(生涯がん死亡リスク)を考えます。このリスクが上がるのは、一〇〇ミリシーベルト以上の被ばくからというのが日本政府の公式見解でもあります。

文科省が二〇一一年十月に刊行した、小中高の生徒向け冊子『放射線等に関する副読本』には次のように記されています。

一度に多量の放射線を受けると人体にがんなどの症状が現れることは分かっているが、子どもも含め一度に100ミリシーベルト以下の放射線を受けた場合に放射線が原因と考えられるがん死亡が増えるという明確な証拠はない。

このように、一〇〇ミリシーベルトの被ばくが、生涯がん死亡リスクを考える際の基準になっているわけです。それでは、この一〇〇ミリシーベルトという数字はいったいどこから出てきたのでしょうか。

結論を述べますと、その起源は、アメリカ原子力委員会、原爆傷害調査委員会(ABCC)とその後継機関である放射線影響研究所(放影研)による、広島、長崎の調査にあります。

p228-229。

ここまで、現在の国際的な放射線防護基準の基礎となる、広島、長崎の被爆者の健康調査(LSS)と、線量推定システムという二つの指標の問題について見てきました。

二つの指標それぞれで、被ばくの影響が過小評価されています。こういう何重にも積み重ねられた過小評価のうえに、放影研や日本政府による「一〇〇ミリシーベルト以下では生涯がん死亡リスクは不明(危険とは言えない)」という説が作り上げられているわけです。

新しい線量推定システムDS02では、爆心から二キロメートルでおよそ一〇〇ミリシーベルト、二・五キロメートルでおよそ五ミリシーベルトの被ばく線量とされます。したがって、「百ミリシーベルト以下では生涯がん死亡リスクは不明(危険とは言えない)」というのは、「広島、長崎の原爆を二キロ離れたあたりで受ける線量なら生涯がん死亡リスクは不明」と言っていることに等しいわけです。しかし、ここまで見てきたように、ABCCも放影研も、リスクを評価するにあたって、初期放射線しか考慮していません。福島第一原発事故のように、残留放射能と本質的に同じである放射線降下物の影響が問題になる場合には、放影研のデータは役に立たないのです。

健康調査(LSS)の問題点の説明はたとえば、p111-112。

ABCCは、統合研究計画に一丸となって取り組む組織に生まれ変わりました。こうしてはじまったのが、LSSと呼ばれる、「寿命調査(Life Span Study)です。LSSでは、広島、長崎に住む人(被爆者、非被爆者)から調査対象が固定されました。固定されるとは、「いったんこの人を調べると決めたら、その人が死ぬまで調査が続けられる」という意味です。

放影研の説明を見てみましょう。

寿命調査(LSS)は、疫学(集団および症例対照)調査に基づいて生涯にわたる健康影響を調査する研究プログラムで、原爆放射線が死因やがん発生に与える長期的影響の調査を主な目的としています。1950年の国勢調査で広島・長崎に住んでいたことが確認された人の中から選ばれた約94,000人の被爆者と、約27,000人の非被爆者から成る約12万人の対象者を、その時点から追跡調査しています(放影研ホームページ「用語集 寿命調査」より)。

十二万人が対象ですから、非常に大規模な調査であることはまちがいありません。このLSSが、現在、国際的な放射線防護基準を決める根拠となっているのです(もう一つの根拠が後で述べる線量推定システム)。(後略)

p223-225。

しかし、LSSが深刻な問題を含んでいることは、科学技術史家の中川保雄や物理学者の澤田昭二をはじめ、多くの被ばく問題研究者によって指摘されてきました。ここでは典型的な問題を二つあげます。

一点目は、原爆投下時から一九五〇年十月一日までに、放射線被ばくによって亡くなった被爆者がまるごと無視されていること。

中川保雄は、これに関する問題点を次のように指摘しています。

[LSSの]調査期間を一九五〇年一〇月一日以降としたことから、つぎのような問題が生まれた。第一にアメリカ軍合同調査委員会とABCCは放射線による急性死は原爆投下後ほぼ四〇日ほどで終息したと評価したが、それ以後もおよそ三ヵ月間引き継いだ急性死がそこでは切り捨てられている。(略)第二に急性死と急性障害の時期を生き抜いたとしても、放射線 被爆 ( ママ ) による骨髄の損傷が完全に回復することはない。骨髄中の幹細胞の減少によるリンパ球、白血球の減少は避けられない。(略)また、骨髄中の幹細胞に残された障害による突然変異に起因して、晩発的影響である白血病、再生不良性貧血や血液・造血系の疾患が発生する。このように、感染症等にかかって死亡する被爆者が一九五〇年以前には多数存在したと考えられるが、ABCCの調査にはそれらの死亡は全く考慮に入れられていないのである(『放射線被曝の歴史』)。

放射線被ばくの影響を強く受けた人、あるいは被ばく線量そのものは小さくても放射線に強い感受性を持つ人が、早期に重い症状を呈し、死亡に至った可能性は、当然考えなければならないはずです。それなのに、一九五〇年十月一日以前に亡くなっていたため、放射線被ばくに影響を考えるうえでもっとも重要な人たちが調査から除外されました。なんと皮肉なことでしょうか。生き残った人の間で比較しても顕著な差は出にくいのです。

二点目は、被爆者同士を比較していること。疫学調査で大事なのは、正しいコントロール(対照)を設定することです。放射線被ばくの影響を明らかにしたいのであれば、被ばくした人と、全く被ばくしていない人からなるコントロール群とを比較しなければなりません。ところが、ABCCとその後身の放影研は、被爆者同士を比較するという過ちを犯し続けているのです。

(中略)

「異なった距離の被爆者の比較」とは、近距離被爆者と遠距離被爆者を比較したということです。近距離被爆者とは、爆心地から二・五キロメートル以内で被ばくした人、遠距離被爆者とは二・五~一〇キロメートルの範囲で被ばくした人のことです。近距離被爆者と遠距離被爆者を比較すると、結果的に、遠距離被爆者に対する影響は無視されることになります。

ABCC・放影研は二〇一二年までにLSSを第十四報まで公表していますが、近距離被爆者と遠距離被爆者を比較する過ちを犯しつづけています(正確には、一九九〇年頃から、遠距離被爆者も、それまでの近距離被爆者の区分に組み入れていますが、統計処理上、実質的にそれ以前と同じように被爆者同士を比較しつづけています。170ページで触れた澤田昭二が、これについて「放影研の『黒い雨』に関する見解を批判する」で詳しく解説しています。

線量推定システムの問題点の説明はたとえば、p117-118。

先に紹介したABCCの生物統計部長ウッドベリーは、イチバン計画の開始にあたって、残留放射能の影響は考慮しないのかと問い合わせ、研究資料も送りました。しかし、彼の提案はここでも無視されます。この実験に携わった科学者の証言によると、当時のアメリカ原子力委員会委員長が、実験についてマスコミに漏らしたら「殺す」と言っていたそうです。このように極秘裏に行われた、言い換えれば、透明性の低い実験をもとに作られたのがT65Dなのです。

T65Dは長く権威ある線量推定システムとして利用されてきましたが、一九七〇年代に致命的な欠陥が見つかり、一九八六年にDS86という線量推定システムに取って代わられます。さらに二〇〇二年にDS02と呼ばれる改良版が出されて今に至ります。

線量と一口に言っても、T57DからDS02まで扱っているのは基本的には初期放射線の線量のみで、残留放射能による線量は無視されています。その事情について、『放射能影響研究所 要覧』(二〇一四年七月)は、次のように説明しています。

「残留放射線」の推定に必要な情報の入手はほとんど不可能に近いことから、線量評価システムでは初期放射能による個人別・臓器別被曝線量だけを推定している。

測定する手段がない。それが残留放射能が無視される理由の一つです。もうひとつの理由として、放影研が挙げるのは、残留放射能の影響はとるにたらないということです。しかし、問題なのは放影研が、残留放射能についても、初期放射線と同じように、「個人別・臓器別被曝線量だけを推定している」点です。すでに述べた内部被ばくの影響の仕方を思い出してください。初期放射能(ガンマ線や中性子線)のような外部被ばくとは違って、残留放射能による内部被ばくは、体内の細胞レベルに効いてきます。それなのに放影研は、「個人別・臓器別被曝線量だけを推定」するのです。これは、人体レベルや臓器レベルで、線量を均してしまうことを意味します。人体にせよ、臓器にせよ、細胞一個よりはるかに大きいことは言うまでもありません。放影研は、本来、細胞レベルで考えなければならない内部被ばくの影響を、人体レベル、臓器レベルで考えることで、小さく見せているのです。

木村朗・ピーター=カズニック『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点』

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この本は論証が明快でないので読んでいていらつくが、提示されている「仮説」は驚くべきものであり、広く共有されることが望まれる。

p188-190。

(前略)一つはですね、1945年の春の日米両政府の動きです。日本は1945年の2月以来ですね、実はすでに降伏を模索し始めていました。その2月というのは、天皇に降伏を進めた近衛上奏文が出された時期で、それは結果的に却下されたんですが、それが最初の動きです。そして5月。3月に沖縄戦がはじまり、5月8日にドイツが降伏しますけれども、その時期ですね。2月から5月にかけての時期が一つのポイントで、この時期が日本に降伏を求める最初のチャンスであったと思います。アメリカは日本にそういう降伏・終戦を模索する動きがあるということをすでにつかんでいたんですね。でも、その情報を知ったアメリカは、それを歓迎するのではなく、むしろ困ったというか喜ばしくないように受け止めたのではないかと思います。これはマンハッタン計画の主導者であるグローブス将軍の動きによくあらわれています。彼は、このままでは原爆開発が成功しない前に、日本に原爆を投下する前に、日本が降伏してしまうかもしれないということで非常に焦って、マンハッタン計画のスピードアップを命じました。またトルーマン大統領の動きですが、ポツダム会談を早ければ5月か6月にも開催するという可能性もあったんですが、それをわざわざ原爆実験が予定されていた7月半ば以降に延期したんです。それは戦争終結を意図的に延期した、ということと同じだと思います。もう一つは、アラモゴードの原爆実験の結果ですが。それは不幸にも成功したわけです。(中略)

当時アメリカは、ウラン型原爆はもう完成し持っていましたけれども、プルトニウム型原爆については実験次第でありました。だからこの原爆実験に失敗した時は、たとえウラン型原爆一発を持っていたとしても、それは虎の子の一発であって、戦後の冷戦、ソ連との対決を考えたら、その一発だけを落とすという選択肢はなかったのではないかと思います。

それともう一つ重要な視点は、グローブス将軍が一番明確にそのことを言っているんですが、日本への原爆投下は常にウラン型とプルトニウム型をセットで二発落とすということが必須の命題として考えられていたということです。

グローブス将軍はアラモゴードで原爆実験が成功した後に部下からこれで日本との戦争が終りますね、と言われたときに、「いや、まだだ。原爆を二発投下するまでは終らない」と語ったと伝えられています(アラモゴードでの実験はプルトニウム型の原爆)。

(中略)

それで広島への原爆投下後、それによって日本が降伏、ポツダム宣言受諾に動くかどうか、十分、時間的余裕を与えないまま、さらに二発目の原爆投下を、しかもソ連参戦があった直後に、長崎に対して行いました。それで長崎に何故落としたかと言えば、もし長崎に原爆を落とさないで、ソ連参戦直後に日本が降伏した場合には、ソ連参戦によって日本が降伏したということにもなりかねない。それで、もしそのようなことになったら大変ですので、それを避ける為にも直ちにソ連参戦直後に落とす必要があったということではないか、と思います。

本来ならば広島に原爆を落とした三日後の8月9日未明にソ連参戦があった(対日宣戦布告は8月8日)わけですから、それで日本降伏を待つのが当たり前なのですが、それをせずに長崎に続いて原爆を落とした理由は、ソ連参戦の影響を最小限にしたいということの他に言えば、やはり広島に落としたウラン型原爆の他に、まだ一個残されていたプルトニウム型原爆の実戦での使用をおこなう必要があったということだと思います。つまり、プルトニウム型原爆は実験では成功しましたけれども、実戦で成功するかどうかはやってみないと分からないという部分があって、やはり実戦での使用の可否、その影響を知るという、新型兵器の実験をどうしてもする必要があったのだと思います。

p27-28。引用内引用は「被爆者救護法―もうひとつの法理」『毎日新聞』1994.09.06付

こうした仮説を最も早くから主張していた人物の一人が故芝田進午氏である。彼の次の言葉は実に説得力に富んでいる。

広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。一つには戦後世界での米国の覇権確立であり、二つには「原爆の効果」を知るための無数の人間への「人体実験」だった。だからこそ、占領直後に米軍が行ったことは、第一に、原爆の惨状についての報道を禁止し「人体実験」についての情報を独占することだった。第二に、史上前例のない恐ろしい火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第三に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに「実験動物」を治療するのでは「実験」にならない。そこで、米軍は全力を尽くして被爆者の治療を妨害したのである。第四に、「実験動物」のように「観察」するABCC(「原爆傷害調査委員会」と訳された米軍施設)を広島・長崎に設置することだった。加害者が被害者を「調査」するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。

矢部宏冶『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(20141019,集英社インターナショナル)

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筆者(わたし)はこの本の議論の焦点はこの本が「集英社」という「アメリカに都合の良い歴史を日本人に刷り込むこと」に長年貢献してきたような出版社の出版物であることだろう、と思っていたし、今でも思っている。だが「事態は全然それ以前」であり、この本を「良い」という人は「言論を発信したり活動をする」人ではまったくなく、それに対して「言論を発信したり活動をする」人というのはこの本・著者に対してまったく無反応・無視である、という状況がこの一年で急速にわかってきた。なので、まずこの本の一部の叙述は「かなり広く共有」され「言及」されないと話にならない。「岩波vs集英社」などという「論壇の見取り図」のような話題など、高度過ぎて多くの人には全くの無縁だったのである、が、論壇でもそういう話題をする人は皆無である。

p95。

その後調べると日米原子力協定という日米間の協定があって、これが日米地位協定とそっくりな法的構造をもっていることがわかりました。つまり「廃炉」とか「脱原発」とか「卒原発」とか、日本の政治家がいくら言ったって、米軍基地の問題と同じで、日本側だけではなにも決められないようになっているのです。条文をくわしく分析した専門家に言わせると、アメリカ側の了承なしに日本側だけで決めていいのは電気料金だけだそうです。

p96。

一方、日米原子力協定では、多くの条文に関し、「日米両政府は○○しなければならない(the parties shall…)と書かれています。「しなければならない(shall)」はもちろん法律用語で義務を意味します。次の条文の太字部分を見てください。(中略)つまり「アメリカの了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない」ような取り決めになっているのです。(後略)

p97-98。

事実、野田内閣は二〇一二年九月、「二〇三〇年代に原発再稼働ゼロ」をめざすエネルギー戦略をまとめ、閣議決定しようとしました。このとき日本のマスコミでは、「どうして即時ゼロではないのか」とか、「当初は二〇三〇年までに稼働ゼロと言っていたのに、二〇三〇年とは九年も伸びているじゃないか。姑息なごまかしだ」などという批判が巻き起こりましたが、やはりあまり意味のない議論でした。外務省の藤崎一郎駐米大使が、アメリカのエネルギー省のポネマン副長官と九月五日に、国家安全保障会議のフロマン補佐官と翌六月に面会し、政府の方針を説明したところ、「強い懸念」を表明され、その結果、閣議決定を見送らざるをえなくなってしまったのです(同月一九日)。

これは鳩山内閣における辺野古への米軍基地「移設」問題とまったく同じ構造です。このとき、もし野田首相が、鳩山首相が辺野古の問題でがんばったように、「いや、政治生命をかけて二〇三〇年代の稼働ゼロを閣議決定します」と主張したら、すぐに「アメリカの意向をバックにした日本の官僚たち」によって、政権の座から引きずりおろされたことでしょう。

いくら日本の国民や、国民の選んだ首相が「原発を止める」という決断をしても、外務官僚とアメリカ政府高官が話をして、「無理です」という結論が出れば撤回せざるをえない。たった二日間(二〇一二年九月五日、六日)の「儀式」によって、アッというまに首相の決断がくつがえされてしまう。日米原子力協定という「日本国憲法の上位法」にもとづき、日本政府の行動を許可する権限をもっているのは、アメリカ政府と外務省だからです。

p35。

こうした弾薬庫に、もっとも多い時期には沖縄全体で一三〇〇発の核兵器が貯蔵されていました。これはアメリカの公文書による数字です。

緊急事には、すぐにこうした弾薬庫から核爆弾が地下通路を通って飛行場に運ばれ、飛行機に積みこまれるようになっていた。そしてショックなのは、それが本土の米軍基地に運ばれ、そこからソ連や中国を爆撃できるようになっていたということです。

(中略)

中国やソ連の核がほとんどアメリカに届かない時代から、アメリカは中国やソ連のわき腹のような場所、つまり南北に長く延びる日本列島全体から、一三〇〇発の核兵器をずっと突きつけていた。

(中略)

「えーっ、沖縄に一三〇〇発の核兵器があったの?」「しかもそれが本土の基地に運ばれて、そこから飛び立って中国やソ連を核攻撃できるようになっていただって?」とても驚きました。この年になるまで、まったく知らなかったからです。「じゃあ、憲法九条ってなに?」と当然、疑問をもつわけです。

そこで歴史を調べていくと、憲法九条二項の戦力放棄と、沖縄の軍事基地化は、最初から完全にセットとして生まれたものだということがわかりました。つまり憲法九条を書いたマッカーサーは、沖縄を軍事要塞化して、嘉手納基地に強力な空軍を置いておけば、そしてそこに核兵器を配備しておけば、日本全土に軍事力はなくてもいいと考えたわけです。(一九四八年三月三日/ジョージ・ケナン国務省政策企画室長との会談ほか)

だから日本の平和憲法、とくに九条二項の「戦力放棄」は、世界じゅうが軍備をやめて平和になりましょうというような話ではまったくない。沖縄の軍事要塞化、核武装化と完全にセット。いわゆる護憲論者の言っている美しい話とは、かなりちがったものだということがわかりました。

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2018-02-27 80年代「男子御三家」合格者の居住地傾向概観

追記:麻布中の合格者合計数を修正した。それに伴って占有率も修正した。2018.03.09

以下の、リンク先の筆者作成PDFファイルと、それに関連する算出結果から、次に示すような見解をひき出してみる。

80年代「男子御三家」合格者の居住地傾向概観資料(PDFファイル)

各校の「同学区者占有率」
項目 開成合格者 麻布合格者 武蔵合格者
集計合格者総数 (私国立小から含む) 915名 982名 548名
「該当各校に2 名以上合格公立校」 からの合格者数 387名 550名 281名
「該当各校に2 名以上合格公立校」 からの合格者占有率 42.3% 56.0% 51.2%

結論として言うと、「難関中学合格者は、難関中学合格者の居住地域の偏りの全体像を認識することが1980年代には難しい」となる。どういうことか。

まず開成である。開成の合格者の出身小学校一覧を眺めていて普通まず感じるのが「茫漠としていてとりとめがない」である。要するに「開成に多く進学する地域が存在する」という印象をもつことが難しい。その印象の根拠が、上に示した「同学区者占有率」である。麻布や武蔵に比べ、開成は42%とやや少ない。要するに開成というのは「開成に多く合格する学区」からの合格者の占有率が低めの学校なのだ。

開成の在籍生徒の居住地で強調される傾向はだから、「いろんな地域から生徒が来ている」であり、特に話題になりやすいのは「やたら遠方から通学している生徒がいる」である。たとえば本多勝一『子供たちの復讐』(朝日出版社、1989)や森上展安『10歳の選択 中学受験の教育論』(ダイヤモンド社、2009)でもそのような話題が生徒や事務長から出る。たとえば水戸や九十九里浜などから通学している生徒が言及された。

その一方で、上掲の「居住地傾向概観資料」を参照してみると、少なくとも千葉県の柏を中心とする一帯は、開成合格者が特権的に多い地域といって良いこともわかる。ただ、それは結果からみると明らかなのだが、言説の形で見ることは意外と多くない。一方、言説の形で既視感があるのは「開成は下町の生徒が多い」である。先の森上本でも日暮里・舎人ライナー沿線に200人規模で生徒が住んでいる、という言及がある。しかし、そういった傾向はたしかに多少はあるかもしれないが、「居住地傾向概観資料」を見てもわかるように、少なくとも80年代にはそういったくっきりとした傾向は存在しなかった。この時代においても、江戸川区や足立区からの合格者と、目黒区や世田谷区からの合格者とでは、後者のほうが少し多いんじゃないかなあ、くらいの傾向ではあるのだ。なお、地域とは別に、「大規模公務員住宅のある学区」からの合格者は抜きんでて多い、という傾向もあるにはある。官僚の子供は開成志向が強いかもしれないわけだ。

他方、麻布の場合は「麻布のある広尾駅へのアクセスの良い地域の生徒が多い」すなわち「港区および東急沿線(特に田園都市線と東横線沿線)の生徒が多い、と認識されやすくなり、武蔵の場合は「武蔵のある練馬区に近接している地域の生徒が多い」すなわち「練馬区、中野区、杉並区、武蔵野市、三鷹市などの生徒が多い」、と認識されやすくなる(ただし交通アクセスが良いわけではない)。麻布の場合は「近いわけではなくともアクセスの良い地域」の生徒が多いと認識されやすくなり、武蔵の場合は「アクセスは良くなくとも近い地域」の生徒が多いと認識されやすくなるわけだ。

このように、中学受験難関校の合格者は居住地が棲み分けてしまい、各校ごとにその「理解の仕方」も異なるため、全体としてみたときの「難関校に合格するような小学生の居住地の偏り」≒「その親であるような階層の居住地の偏り」の「全貌」が見えにくくなる。実際には、これらのなかから「筑駒に進学する者」も多く出るため、なおさら分散してしまい、相互に傾向が見えにくくなる。麻布や筑駒の場合だと「ブルジョアの子供が多い」となり、それはそれである程度正しいものの、「高学力→金持ち」と短絡されやすくもなる。しかし実際にはそこまでの金持ちである必要はなく、むしろそれと連動する各種の要因をより多く満たしている者が有利になるという複合的な現象なのだ。

ということはすなわち、「そもそも首都圏の居住地の全体」に「格差」それも「地理的・自然災害リスク」の格差があること自体も、これらの出身者は認識しづらくなる、という可能性があるわけだ。その指摘だけしておく。


2018-02-28 開成高校生殺人事件の概括

この事件は、「受験勉強の病理」ではなく「階層移動の失敗」であること

1977年の「開成高校生殺人事件」は、1966年から1975年にかけて日本の「大学短大進学率」が15%強→40%弱まで急上昇した直後の事件である。すなわち、「大卒・短大卒でない者が自分の子供を大学・短大に進学させた」と、そういう者の割合が急増していた末期の事件である。つまりこの時期、日本国の学歴構造に巨大な変化があったというわけだ。この事件はその「急増した」層の「失敗」例として位置づけることができる。すなわち、開成高校生殺人事件の少年の父親は中卒(小卒という話もある)、母親は(成績上位とはいえ)高卒であり、一方、少年は小学校は(附属中学校に上がれないシステムの)私立小学校であり、中学校から開成であった。つまり、両親は少年の歩んだコースに関してまったく未経験・未知であり、何かしてあげられることはほとんどない。そういう状況であった。言うなれば何も知らない子供がエベレスト登山に「行ってくるよ」と無装備で出かけ、やはり何も知らない親が喜んで「行っておいで」と送り出したら子供が遭難死した、とでもいうような事件であった。

したがって当時そうされたように、この事件を単なる受験競争(や学校化)の病理と見るのはあまり筋がよろしくない。なぜなら、受験競争といっても「親が大卒」である場合と、「親が非大卒」である場合とで、その様相はまったく異なってくるのであり、この事件は明瞭に後者であったからだ。この事件の問題性は、この少年の両親が、自分の子供の先にどのようなレールを敷いてしまったのかの認識がまったくもちえない者だったことにこそある。

何もわからない小学生に中学受験を決意させてしまった環境がまずあった

たとえば、この少年の両親は、「商売人」から自分の子供を守る能力が無かった、と、現在の視点からなら言える。ここで言う「商売人」というのは、たとえば少年の通った私立小学校の担任であり、あるいは少年の通った進学教室の関係者である。彼らは言うまでもなく、それを職業とするものであり、この少年が開成中学に合格することで「実績」になるような立場にある。小学校の担任が自分の担当児童を開成合格させることが「実績」になるというのは、公立小学校の場合だといささか奇異な話であるが、もし私立でありしかも中学校に上がることができないシステムであるのなら「実績」になる可能性は充分ある。また反対に、担当児童が中学受験をせずに公立中学に進学した場合、「マイナスの実績」になる可能性すらある。だから、この少年が「自分の意志」で開成中学を志望したという話を聞いたとき、保護者によっては「その“自分の意志”とやらは商売人によって話を吹き込まれた事の影響なのではないだろうか」と疑うだろう。だがこの両親にはそのような世間知や才覚はまるで無かった。むしろ反対に、そのような「進学させたい商売人と進学させたい顧客」との共犯的関係からなる「世間」から自分が疎外されることを怖れ、あたかも自分もまたそのような「世間」の住人であるかのように切望した。その結果が「自分の子供には世間並、99%の普通の人の世間がやっているような事しかさせていない」という趣旨の、裁判での証言であった。「私立小学校と進学教室とその顧客」から成る「世間」に所属したい無自覚的な願望のあまり、その「世間」こそが標準的な世間であると思い込み、そのことによって「商売人」から自分の子供を守ることができなく、またそもそもそれだけの才覚の無い両親の姿が、現在の特権的な視点からなら浮かび上がってくるはずである。

現在の視点からこの事件の記録を振り返った時非常に奇異に感じることがいくつかあるが、その最大のものはこうだ。「少年はクラスのほとんどが中学受験をするという私立小学校に通っていた。小学校入学前には少年の学力などまったく未知だったはずだ、なのに、なぜこの小学校に入学させたのか、というふうに、そのことを問題視する声が全く見当たらない」これである。この私立小学校は私立女子中学校の附属であり、男子児童は中学にエスカレーター式に進学することはできない。したがって、外部の中学に進学することになるわけだが、そのほとんどは私立国立中学に進学する、というわけだ。学芸大附属中学やお茶の水女子大附属中学にも見られるこの種のいびつなシステムを何と呼ぶのかわからないが、ともかくこの少年は小学校入学とともに中学受験生になることが半ば自動的に決定されてしまった少年なのである。そして少年の両親にその自覚が無い。ところがそのことが当時の記録ではまったく注目されていない。そのことが現在から見た時大変奇異なのである。

中学受験をすることを強いられたといっても良い少年の状況に注目が集まらなかったのは、当時はまだ中学受験ということの位置づけ自体がはっきりしなかったからである。平たく言えば「中学受験をするということ自体があまり普通ではない」というふうには受け取られなかったわけである。その理由として、日本社会における「標準的なエリートコース」にこの事件の少し前に変動があったことがある。事件の10年前、つまり少年が開成中学に入学する5年ほど前に、学校群制度が導入されている。つまり事後的に見れば「東京大学合格への最短距離が都立日比谷高校であった」時代がその時終焉を迎えた。実際、少年の8学年上である四方田犬彦の『ハイスクール1968』には「これからは中学受験の時代よ」と意気軒高な教育ママたちが登場する。そのような教育ママたちは、自分の息子を「教駒」に入学させてご満悦であった。しかし、情報に目ざといそういう教育ママと、この少年の両親は全く無縁の世界の住人であったのだ。開成高生であるこの少年の両親は学校群制度といった語彙もおそらく知らなかったに違いない。そもそもこの両親は開成学園のことも当初知らなくて、小学校の担任から合格確実であると勧められて初めて知ったほどであるらしいほどなのである。いずれにせよ、「東大進学に有利なコース」の主戦場が高校受験から中学受験に移行したこと自体が、一部の先端的な層以外にもようやく周知されてきたばかりの頃であり、その移行の「帰結」などほとんどの者には想定外のことであった。たとえば、世間の事がまだ何もわからない小学生が「商売人」に吹き込まれてその気になって自ら学力競争に飛び込みやすくなる、といった「帰結」など想定もされていなかっただろう。この事件の「主要登場人物」にとってもまたそうであったのだ。

それは「世間」の側もそうであり、この事件で異常だと見なされたのが「中学受験のために塾に通わせること」のほうであり、「そもそも中学受験をすること」のほうでなかった、ことからも裏付けられる。そのことが「世間」の代表である検察官の質問に現われている。この検察官は「小学校でトップであるにもかかわらず、塾に通わせること」のほうを異常だと思っており、「中学受験をさせること」や「そもそも学内での順位が生徒に通知されるような小学校などに子供を通わせたこと」のほうを奇異に思っていない。そのことに、この事件を受け取る「世間」の側の認識のほうの「遅れ」が、現在に視点からは見い出しうる。簡単に言ってしまえば、当時は中学受験など学校の勉強だけで充分である、と思われていたのであり、だから検察官に質問に対して少年の母親は一から説明しなければならなかったわけである(学校で習っていないような高度な出題がある等)。このズレは現在この事件の記録を振り返る者にも充分認識されているとは言えないだろう。留意されたい。なおこの少年が通塾していたのは週に一度の「テスト教室」であり、「いわゆる塾」ではない。念のためにこれも付記しておく。この「テスト教室」に関しては、インターネットでほぼ見かけないので、田原総一朗氏の次のコメントを引用しておく。中学受験ということの今一つの「帰結」が予示されている。『激烈なる漂流者―翔んだ男達の軌跡 ヒューマン・ドキュメント』(1979,PHP研究所)

事件当時の新聞や雑誌を見ると、たとえば、殺された息子は、小学校のときに、四谷大塚進学教室に通っていたそうだ。

四谷大塚進学教室といえば、私が住んでいた地域では、有名中学を狙うための、最高の進学教室であり、近所の親たちは、四谷大塚進学教室に入れるために、二人も三人も家庭教師をつけて子供の尻をたたいていた。

四谷大塚進学教室に入るためには、難しいテストがあり、そのテストに合格した子供の親たちは、まるで開成や麻布に入学したかのように誇らしげであった。

この事件以降の時代、ある一時期において「四谷大塚進学教室に合格するための塾」や「四谷大塚進学教室のテストでいい成績をとるための塾」が都心部に氾濫していたのは事実である。その後四谷大塚の競合塾が増え、また四谷大塚のような「予習型」が子供向きではないと見なされるにつれて、それらの氾濫は下火になっていった、と現在ならまとめることもできるであろう。いずれにせよ、こういった話が不思議なくらい母親から飛び出して来ないのがこの事件の特徴である。

酒を飲めない者が「大衆酒場」を経営していた、という根本

この事件を社会的・時代的背景をあまり考慮せずに、虚心坦懐に眺めると、「要は、酒を飲めない者が飲み屋を経営していたという事に尽きる」と言いうる側面もまた、ある。この少年の父親は、酒を飲めないあるいは飲まないにもかかわらず、小料理などを提供する酒場を開いていた。つまり自分の提供するサービスの品質を自分自身で判断できにくい者だったわけだ。この事件を物語として見た場合は、そこに問題が集約され象徴されているように思えてもくる。

実際、この両親が少年の経験してきた環境を、自ら追体験しているという証言が見当たらない。たとえば開成中学や進学教室の出題を自らも見て確かめているという証言があまり無い。確かに「学校の勉強だけでは進学教室や開成の出題に太刀打ちできない」といった趣旨の証言を裁判で母親が行なってはいるが、これだけだと、誰かの受け売りをそのまま語っているだけという可能性が高い。或いは、少年が開成中学に進学後の時期でも、開成の教材やテストを検討したり、開成の「運動会」などの学校行事を参観してみたり、あるいは少年が愛読していたらしいいくつかの書籍を両親もまた読んでみるといった行為を行なっているという証言や形跡も見当たらない。あるいは、母親が「最低でも大学には入ってほしい」と望んでいたわりには、東京大学をはじめとする大学に関して何か調査をした形跡も無ければ、どのような学部を志望するといった話題もまったく語られなかった。つまり言ってみれば、少年の両親の態度と、本多勝一『子供たちの復讐』の中で朝日新聞記者らによって語られている「開成の教師」の態度との間にはそう大きな違いが感じられないわけだ。どちらも(あまり感心しない意味あいで)「大人扱い」であり、「勉強の結果(成績や順位)」に関しての関心しかなく、少年の「勉強や読書の内容」や「内面」や「人生」に対する関心がうかがえないのである。この両親は結局少年が小学生のときは教育産業の関係者にまかせきりであり、その後事件が起こると今度は精神科医らに頼りきりであり、彼らに見捨てられると何の方途も採ることができなかった。

ついでの形で言えば、両親のこの傍観者的な態度は本多勝一氏にまで部分的には見られるものでもあった。氏が口を極めて大学受験や学歴社会を批判するとき、たとえばそこで槍玉に挙げられている「試験」の在り方が「あの東大入試」の事を語っているようにはどうしても見えないわけだ。氏は東大入試の実物も何も見たことがないのではないか、にもかかわらずその状態で学歴社会や学力試験に一元化された価値観を批判しているに過ぎないのではないか、と思わせるに充分なのだ。氏が学力試験を「音楽の実技のテストではなく、作曲家や作品名を暗記しているかどうかを試す試験」に類比的なものとして語るとき、それが「あの東大入試」について語っていると感じることは、東大入試の実物を見たことがある者にとっては難しい。

さて、一段落前の両親の傍観者的な態度と当然関連している別の重要な論点を述べる。両親のほうから「開成高校を休学/退学してみたらどうか」といったタイプの提案をした形跡は全くない(高二の担任が少年を担当してすぐに思いついたくらいにすぐ思いつくだろう事柄である)。つまりこういうことが考えられる。そもそも開成学園へは少年の方から「自発的に」進学したいと言ったのであった。したがって少年のほうから「休学/退学したい」という訴えは切り出しにくいだろうことも想像がつこうというものだ。しかし、この両親は、そのような切り出しにくさに関して考慮した形跡や証言が特に見当たらない。つまり、「辞めたい」と言い出せなくて少年が苦しんでいたという可能性を考慮してみた形跡がない。

ついでに開成学園の授業に関して、やや偏ってはいるが次のような指摘がある。たとえばデータハウス『東大理3の92人―天才たちのメッセージ』(1986)に(かなり編集されて)掲載された体験談のなかに、開成高校から現役で東大理3に合格した青年のものが掲載されている。それによると「開成の授業は難し過ぎて誰も重視していない。クラスに数人しかいない、授業についていけるような者だったら誰だって理3に入れるだろう、そんな学校である」という趣旨のことを述べており、またその青年のことを友人は「○○君が授業中心だったのは1年生のときだけ、2・3年は予備校男」と評していた。この内容と併せて、本多『子供たちの復讐』の朝日記者座談会で「開成でも1番から10番までは苦もなく東大に入れるが、10番から100番というのはやっぱりそういうわけにはいかない。東大に入るためにかなり努力しないといけない」という主旨のコメントとを考慮に入れて、これらを合成してみると次のような当時の開成の授業像が浮かび上がってくる。すなわち「開成の授業は上位10人の生徒のレベルに合わせて行なわれており、それこそが“開成の強さ”の秘訣である。したがって、時代が経つにつれて開成の授業を重視せずに、塾や予備校といった“生徒のレベルに合ったツール”で学習することを重視する者が増えていくようになった」、これである。「授業が難し過ぎるから重視しない」という点はその内実はさまざまだろうが、開成以外の名門校にも充分通用しそうな授業観であり学習論であると思える。

話を両親の態度の話題に戻す。次の点もまた両親の傍観者的態度の帰結である。すなわち、少年が「自分の鼻が低いので整形手術をしたい」と訴えるときに、この両親は、当然考えてよい可能性というものを考えた形跡が無いのだ。もしかすると、少年のプライバシーに属する事柄だと本多氏が判断して意図的に削除したのかもしれない。あるいは両親が新聞記者には話すことはできないと判断して話さなかったのかもしれない。しかし、インターネットで調べても、この両親がその「当然考えてよい可能性」を考慮したという話題は見当たらなかった。この両親は自分の息子がそれなりの年頃であり、その年頃に見合った感情をもつ可能性について全く考慮の外であった。そのくらいには少年の人生に対して傍観者的であったと言える。実際、小学生から高校生までの期間に少年には友達らしい友達は居なかったようにしか記録からは思えないが、両親はその点を特に心配して、いつもやるように「誰か外部の専門家」に相談した形跡が特に無い。精神科医が相当無責任に「このままでは(自殺するのでなければ)犯罪者になる」と言っていたのは、この「友達がいない」点を指しての指摘であると解釈しても良いのではないかとも思える。いずれにせよ少年の「俺の夏休みを返せ!青春を返せ!」という叫びはこの領域の問題を訴求していたと見るのがまずは常識的な判断であろう。「青春」は文字通り受け取るべき単語だったように筆者には思える。

両親の少年に対する態度には、ここまで述べたように「少年の体験を追体験してみる」という試行の形跡が見られない。そしてそのことが父親が「自分が飲めない飲み物を客に提供するという商売をしている」という点に、象徴的に表れているように思えるのである。この父親は、「客の立場」を追体験していないし、おそらくし得ない。自分でその品質に責任をもつことができにくいサービスを客に提供していたこの父親が母親ともども、自分の息子に対してもまた、自分で品質を判断することもできず責任をとることのできないような、人生のコースを与えてしまっていたのである。

少年が文学作品や哲学書を愛読していたのは単なる「一発逆転」のツールとしてである

「開成高校生殺人事件」の少年は、文学や哲学の本を読むようになってから成績が落ちた、と、母親は証言している。私見では、むしろ反対に、成績が落ちそうだったからこそそれらを読むようになったというのが真相に近いと筆者は思うが、それはともかくとして、この点があるために現代の視点から見ても尚、この事件が関心や共感を抱かれると言える。すなわち中高段階の教科学習にはいろいろと重要なものが欠けており、そのことを訴求したい側には大変有利なエピソードであるわけだ。だが、この点はあまり過大視しない方が良く、またむしろ少し別の受け取り方をした方が良いと思う。そのことを以下述べる。

本多勝一『子供たちの復讐』のなかで朝日新聞の記者の座談会で、私立の麻布高校や武蔵高校には親の資産や家柄だけで食っていける層が相当いる、だから受験勉強で落ちこぼれてもそのダメージが少ない、という事柄が述べられている。それに比較すると開成高校は親に余裕のない層、親の所得が劣る層が比較的多い、というわけだ。確かにこの三校で比べた場合そういう話になるのかもしれないし、この見解は実質的には正鵠を射ていると筆者も思う(参考:80年代「男子御三家」合格者の居住地傾向概観資料(PDFファイル・アドレスや内容は今後変更がありうる))。だが、ここには、記者たちも依拠しているだろうマルクス主義の落とし穴がある。それは経済構造がすべての社会現象の根本にある、という点だ。もし、これらの三校を「経済構造」ではない点で比較した場合どうなのか。(なお、「家柄」というのがもし「皇室との距離関係」によって決まって来るものである場合、開成のほうが「家柄が高い」家庭の生徒が少ないとは断定できない。皇室に対して批判的であるような学校文化は麻布高校あたりのほうがずっと発達しており、また小学生のときに左翼嫌いであった原武史氏が左翼から逃れるための方策として開成を志望したのだから、「皇室と親和的である」家系の者はむしろ開成が多いはずだと見たほうが良い)

「経済構造」ではなく、それと関連はしているだろうが別の尺度として「学歴・職業威信」という話を持ち出してみる。現在の我々はすでに、原武史『滝山コミューン一九七四』という書を手にしており、三島由紀夫の息子が例の少年の開成学園での二学年下に在籍していたはずであることを知っている。ということは、「東大法学部を卒業して大蔵省に入省」することができた親をもつ子供が在籍していた、というわけだ。この平岡少年は開成学園における「例外」なのだろうか、それとも「典型」なのだろうか、あるいは「頂点」なのだろうか、という話になるわけだ。ただ筆者による独自研究では「開成中学合格者には大規模な公務員住宅のある学区からの合格者が抜きんでて多い」という知見を得ており、平岡少年が開成における「例外」であることはまずない、と言ってよいのではないかと思う。むしろ一学年に十人くらいなら「高級官僚の息子」が在学しているくらいなのが開成という高校なのではないかと言ってよいほどなのである。ただ「高級官僚」では「親の家柄や資産だけで食っていける階層」には当たらないであろう。その意味ではいくら官僚の子供が多くても「親の家柄や資産だけで食っていける層が多い」麻布や武蔵には劣るだろう、とは言える。だが、逆に言えばこれらの学校の「経済構造上」の比較とはこんなものでしかない。「一般人」には無縁の比較なのだ。

「学歴・職業威信」という点でなら、次のように考えたほうがよほど実情に近いと筆者は思う。超難関高校の場合に限り、「出口と入口とはだいたい同じ理論」が成立する、すなわち「東大に卒業生が二百人合格する学校には、東大卒の親をもつ生徒が二百人いる」と、これである。「入口」から「東大卒の親をもつ子供」が二百人入学してきた場合、「出口」からは「東大に合格する生徒」が二百人輩出される、とこういうイメージである。別に東大卒の親をもつ者が東大に合格するとは限らない、一橋大や東工大や早慶に甘んじるかもしれない。しかし、全体としてみれば「卒業生の親(主に父親)の合格実績」≒「卒業生の合格実績」と見てよい、というわけだ。なぜなら反対に一橋や東工大や早慶卒の親をもつものがその分東大に合格するからだ。ここで注意が必要だ。この時代は「親が非大卒であるにもかかわらず子供は大卒」という者が急増していた時代なので、この理論はほとんどの高校には当てはまらない。だが例外として「頂点も多数派も東大」である高校・そういう時代になら当てはまる、なぜなら「東大より上」が(ほとんど)ないからである。「いちばん上」は急増できないのであり、「親の代」から決定している「指定席」が事実上存在するも同然なのである。

「親の学歴が子供の学歴とある程度相関する」あるいは「親の学齢時の学力や順位と子供の学齢時の学力や順位とはある程度相関する」という命題は、現在でもさほど自明のものでもない。またそのメカニズムも明らかであるとは全く言えない。だが少なくとも「大学受験」を経験し、「大学入学から卒業まで」を経験している親のほうが、それが全く欠落している親よりは、子供への的確な対応ができる確率は高い。何であれ自分が体験している方が、していないよりは的確な対応ができやすいのだ。ただ、高学歴の親は同時にまたしばしば多忙な社会人でもある。高学歴であればあるほど子供を高学歴にするノウハウに通じているが、一方では、高学歴であるとしばしば多忙になり子育てにあまりかまけていられなくなる、という因果関係があるわけだ。そのため、「親の学力」と「子供の学力」との相関は「ある程度」といった具合にやや薄められたものにはなる。また「遺伝」や「家庭の文化資本」が影響するとしてそれがどの程度のものなのかは、現在全くはっきりしていない。

だが次のことは言える。開成高校だろうが麻布高校だろうが言えると思うが、「親の学歴(から推定できる学力)が高いほうが、子供の学力が高くなる可能性が高い」という命題を、この種の高偏差値学校に在学していると日々体感する、ということである。その体感のしかたは「実際以上」のものであろう。というのも、「特に目立つケース」などが偏って噂になりやすいからである。こういった学校には必ずと言ってよいほど「著名人」の子供がおり、また「誰々の親は東大卒である」といったタイプの流言も流れやすい。また「誰々の親は○○に勤務している(又は職業が大学教授や医者や○○社の社長である)」といった話も年中耳に入って来やすい。これらの話に登場する大学名や勤務先よりも「ワンランク下」くらいの者ならかえって奮起できるし、しばしば実際に奮起するものだ。だが、「何段階も下」の出自の者がそれができるためには、相当の「上げ底」や「鎧」が必要であろう。苅谷剛彦氏が述べたように、日本の高度成長期に見られたのは「親が高卒だが子供が大卒」といった「ワンランクの上昇」であり、たとえば「親が高卒だが子供が東大卒」といった「何段階もの上昇」ではなかった。この少年の父親は裁判で「大衆酒場」を経営していた、と自身は述べているが、これがどこかで「レストラン経営」という話にすり替わっていた。つまり、言わば微妙に粉飾されていた。それを聞いた少年が「親父の店はレストランじゃない!」と激昂したという話は、この事件について語られるときしばしば言及される。この少年は開成での「階層の再生産」に言わば押しつぶされそうになっていたと見ることができるわけだ。そこで少年が縋った「上げ底」や「鎧」こそが文学作品であり哲学書であった、と見ることはまったく不自然ではない。むしろ「よくある手口」ですらある。

「親父の店はレストランじゃない!」という少年の叫びの「標的」が父親のほうなのか、それともたとえば「母親が見栄をはってそのように申告した」と判断したうえで標的が母親だったのか、それはわからない。つまり、職業上の階層そのものへの劣等感だったのか、それともそういった階層を気にすることのほうへの劣等感や侮蔑だったのか、そこまではわからない。ともかく、大学受験にせよ開成にせよ、あるいは父親の職業が酒場なのかレストランなのかにせよ、そういった各種の問題の一切合切を、一気にリセットし、「すべては世俗的であり、くだらない俗物どもの生態に過ぎない」とでも言ったような「高所高見」に立つことを可能にしたのが、文学作品であり哲学であった、と筆者は見たい。少年は文学・哲学書によって「一発逆転」をはかったのであった。それが少年に可能な唯一の「上げ底」「鎧」であった。

文学や哲学に耽溺することは、通常は、むしろ反対に「高偏差値の生徒」つまり「高偏差値高校・大学でのトップクラスの生徒」にとっての煙幕的なツールとして用いられてきた。高田理惠子『グロテスクな教養』(2005,筑摩書房)で縷々述べられているように、高学歴のエリートほど「ぼくはたんなる受験秀才ではない!」と言わんばかりに「受験勉強以外の何か」を誇示するものである。また、高偏差値高校や大学でもまたそういった風景が展開される。たとえば「筑駒」の文化祭は東大受験の半年前に高校三年生主宰で行なわれる。実際にはもちろん「東大生なのに肉体労働アルバイト」でも「東大生なのにアイドルおたく」でも「東大生なのにお笑い芸人」でも「東大生なのに早押しクイズに強い」など何でもいいのだ。要は受験勉強でなければ良く、「たんなる受験秀才ではない」ことの証明は何であっても良い。その一つのツールに「東大受験生なのに文学や哲学に耽溺」というのもまたある、というわけだ(ただし「東大生」になってからだと文学・哲学はかなり「ダサい」。文学に耽溺したり文学部に進学するのは都心ではなく地方出身者と昔から相場は決まっており、もしやるなら「ふつうの文学部生の読むようなものをダサいと蔑視できるような文学・哲学」でないとダメだろう。我々はすでに浅田彰氏の著書がそのためのツールとして使われてきた歴史を知っている)。いずれにせよ、ここでの問題は「受験勉強と文学・哲学との乖離」ということにあることがわかる。

「受験勉強と文学・哲学との乖離」の背景をなしている事情

ここまでの筆者の書き方から想像がつくように、筆者は次のように言いたいのである。「もし大学受験の主要教科に文学や哲学があり、そこで課されるものが高度な論述の出題であるなら、少年が文学・哲学に耽溺することはなかった」、これである。実際この少年の十一学年下からは、東大の文科3類(後期)はその方向に少しは適合した出題を課するようになった。なので、この時点からは「受験勉強を見下したり、または、受験秀才であることを正当化するためにあえて文学・哲学に耽溺する」という高校生の戦略は、存続することが少し難しくなったと言えるかもしれない。文学や哲学に耽溺しても、それは「後期文3対策」と受け取られてしまうからだ(同様にその時期に高校生が社会科学に耽溺してもそれは「後期文1対策」と受け取られかねないだろう)。他大学の小論文入試にもそのような可能性が同様にして、あろう。しかしいずれにせよ、それはまだだいぶ先の話である。以下、この事件の時代が特殊であったことを浮き彫りにするために、以下の状況分析をしてみる。

まずその一は、この時代の大学の専門教育などはほとんど存在しないに等しく、専門教育と言えるものを受けるためには大学院にまで進学しないといけなかった、という事柄が挙げられる。理由は大学の最初の二年間は「教養教育」で潰されるからであり、最後の一年間は「就職活動」でかなり占められるからである。理系の就職者が大学院まで行くのが当然であることや、医学部が四年では到底足りないので六年制であることを考えてもわかることだ。なので、この時期に「大学での学問を学ぶために大学に進学する」と述べたとしてもそれははかなり空疎に聞こえる。つまりどうあがいても大学進学は「大卒資格を得て就職するためのツール」以上にはなりえなかったのである。(もっとも教養部が廃止されてからは就職活動の期間が長期化して三年時からになったので、実際にはあまり状況は変わっていない)。そういうわけで、この少年が「大学」という単語から連想されるものが「受験」であり、「入学後の学問」ではなかったとしてもそれをとがめることは到底できない。どのみち最低でも大学三年までは「学問」はお預けなのである。そして本格的な研究は大学院の領分なのである。

その二は、「高校の文系科目や文系の大学受験勉強が、大学入学後の準備として位置づけられていないこと」がある。周知のように、理系とは異なり、高等学校の文系科目は大学での人文科学や社会科学を学ぶ準備や前提という位置づけをもつという保証は(分野にもよるが)まったく無い。というより、もっと言えば「大学での学問のうち、特に社会科学や社会思想に連なるもの」をできるだけ高等学校から排除しようとしたのが、高等学校の文系科目なのである。文科省がぜひとも高等学校で生徒にやらせたいのは主に日本史と古文なのであり、他はおまけみたいなものである。そしてそのおまけまで含めても、大学で学ぶことの必須の準備として位置づけられるものではとうてい無い。文系の場合「準備として必要な素養」の多くは、結局大学での教養科目等で大幅に補っているのであり、高等学校は足踏みの期間である度合いが高い。なのでこの状況を反映して、慶應大学が昔からやっているように、文学部まで含めて入試科目に国語が無いだとか、東大が1990年から行なっているような文系の後期入試のように、もはや高等学校のカリキュラムとの連関を強く指定しない受験科目によって、大学も学生を選抜するようになる。だがまだ時代は、それ(東大後期施行)より以前の時代である。なので、仮に大学でのカリキュラムを「単位を揃えること」というふうにかなり割り切って考えた場合ですら、大学受験の勉強は英語以外は必ずしも積極的な意義をもたない。特に法学部や経済学部に進学する者にとっては「ほとんど意義が無い」に近いものになる。大企業が法学部ついで経済学部から学生を多く採用するのは、「それだけ実利的な価値の低いものに時間を割いてきたその努力と才覚」をある程度以上評価するからである。

なお、この事件の記録を読んでいると全く証言に登場しないため、思わず忘れそうになるが、この少年が生きていれば共通一次試験の受験生一期生だったはずである。ということはその前年までは国立大学の入試は「一期校/二期校」制だったわけであり、一次試験もまた国立大学ごとに行なうのであった。つまり、東大の場合文系科類を受験する場合は、「東大の出題する文系用の理科一科目」も受験しなければならないのである。なので、この少年の時代においては共通一次試験も含めてまだ未知数の事柄が多く(すなわち二次試験準備の片手間程度の労力しかかけないものになるとは想定しきれず)、したがって「文系であっても一次試験は(東大なら東大の出題する)理科一科目が必要な科目」という想定であるはずだ。ただその理系科目であっても、「入学してから学ぶ学問のために必要な準備」としては位置づけにくいのは文系科目以上であろう。そういうわけで、前の段落で述べた事柄は特に変更は要しない。ただこの時代には「文系受験生であっても理科一科目が国立に入るには必要かも」という想定がまだある程度生きていたことを確認はしておきたかったのだ。

その三は、「大卒を採用する企業や官公庁は、大学での学問の成績や成果」によって採用するわけでは全くない、という現在でも変わっていない事態である。何しろ、「卒論のある学部」であっても卒論を書き始める前に「内定」が決まったりするくらいなのだから、いかに大学での学問など企業にとってどうでもいいかが知れようというものだ。なので、東大に進学したいという願望は、要するに「東大卒が就職できる先に就職したい」という事柄かあるいは「大学入試で最難関に合格したい(自分の優秀さを証明したい)」という事柄かのいずれかであって、「東大で学問を学びたい」には普通ならないしなりえない。もしなるとしてもそれはその学んだ成果によって企業や官公庁に採用される理系のみである。文系の場合そのような「○○大学で××を学びたい」などということを考えるのは、相当の変人だけである(大塚英志氏のように民俗学を学ぶために筑波と國學院を併願するなど)。いるとすれば学者一家に育った者というこれまた例外的な生まれの者だけである(この場合、「東大で学位をとって学閥のトップに立ちたい」という願望をもつこともありうるが、当然限られる。)また、そのような願望を援助・促進するような情報もツールも、市場にはほとんどない。現在のようにインターネットが発達しているわけでもなければ、そもそも高校生が読めるような新書などもかなり種類の乏しかった時代の話であることを忘れてはならない。なので、この少年の母親のように「文学や哲学に耽溺→受験勉強の邪魔(または逃避)」と受け取るのは「正しい」のである。と同時に、そのような母親を「教養が無い」と罵倒する少年もやはり「正しい」。ただその「教養」というのは徹底的に「受験勉強」や「就職」と対立的な関係にあるのであった。就職と教養とがとことん対立しているという主張は、前掲の『グロテスクな教養』でも縷々説かれている事柄である。この少年の場合、仮に大学合格まで首尾よく行ったとしても、今度は「就職」をめぐって何らかの騒動が起こることは想像に難くなかったのだ。

「試験勉強に強い」という特質やモノサシは、無い

この事件を「単一の価値観やアイデンティティしか通用しないことの悲劇」のように捉える者も多い。ここに見られるのは「試験勉強に強いという能力」あるいは「試験勉強に強いという性質(人格)」というものが成立する、という前提である。だが、この事件はそういう概念を想定することで説明できるようなタイプのものだろうか。そこには疑念を差し挟む余地があることを指摘したい。

たとえば「英語での発話」を聞いてそれを「聞き取る」(ディクテーション)という試験と、「音楽」を聞いてそれを「聞き取って採譜する」という試験とを考えてみよう。前者は「試験勉強」の能力だが、後者は「音楽」の能力である、というのは恣意的に過ぎる、と誰もが思うだろう。また、前者には創造性が必要ないが、後者には創造性が必要である、たとえばモーツァルトができたではないか、というのも恣意的に過ぎるだろう。モーツァルトにできた「音楽を記憶して採譜する」能力は、訓練するメソッドさえあれば、凡人にも程度の差はあるだろうが可能であり、ある程度の練習可能性というものはあるからだ。「ペーパーテスト」という外見や「筆記するという行為が同一である」という外見の類似性によって、「同じ能力」か「違う能力」かが決まるわけではない。

このことは、「ペーパーテスト」で選抜された者が外科医になっても成功することが少なくない、ということからも言えるし、他の理工系の職業に関しても言えるのである。理系の専門的な職能の多くは、理系の学力試験を解く能力とは別の能力が必要である、と思えるはずの内容だが、にもかかわらずその適性をペーパーテストで測っても、それほどすごく大きな支障は出ないのである。なぜか。それは外科医の能力にせよ、理工系に見られる手先の器用さや自然物・人工物への洞察の深さにせよ、「学習可能なもの」としてある程度は体系化されているからである。もちろん一定の適性は必要であり、筆記試験は解くことができても、手先が不器用とか工作の才覚がまるでない、ということは大いに起こりうる。ただそれは、筆記試験と専門的職能との間にある違いから予想できるほどには、あまり起こらない。つまり専門的職能に必要な独自の能力は一定程度「学習可能なもの」として体系化されており、「特に向いていない」者でなければある程度は習得できるのである。

だから、もし「試験勉強に強いという能力」を考えるのだとすれば、そこでもっとも深く影響するのは「何であれ学習するという能力」の高さだということになる。マニュアルやカリキュラムがきちんと与えられ時間を相応にかけることさえできれば、東大入試だろうが自動車の運転だろうが楽器の演奏だろうがマンガ描きだろうが無人島に漂着して生き延びることだろうが、何だって「ある程度は」できる、という能力である。そこで肝腎なのは、ちゃんとしたマニュアルやカリキュラムが存在し、それなりの教師とそれなりの時間をきちんと与えられることだけである、というわけだ。ただし「集団スポーツ」や「社交性」や「囲碁・将棋」のように「あからさまに相手が必要」なものに関してはいったんここから除外したほうが良いだろう。一応は「個体の能力」と見なしうるものに限定はしておきたい。なおコミュニケーションへの自信が絶大に欠けている場合の悲劇は、この少年の10歳年下の者が起こした「全日空ハイジャック事件:」があると思うが、これはまた別の問題である。

さて、この少年に欠けていた能力をひとまず「開成学園で上位の成績をとる能力」だとしてみよう。この少年は「開成学園に入学する成績をとる能力」があり、ひょっとすると「何であれ学習するという能力」も高かった可能性もある。だが「開成学園で上位の成績をとる能力」は欠けていた。もし「開成学園で良い成績をとるための塾や参考書」というものが存在していたなら、少年はそちらでは好成績を上げることができたかもしれない。そしてそのことによって実際に開成学園での成績を上げることができたかもしれない。だがそんな「開成学園で良い成績をとるための塾や参考書」というものは存在していなかったし、おそらくその後もほとんど無いだろう。実際には多くの生徒は、そこで開成学園で良い成績をとることは目指さず、「東大入試に合格するための勉強」を独自にすることによって、結果的に開成学園でもある程度の成績にはなる、という形で適応してきたのだ。この少年の悲劇というものは、結局「何であれ学習するという能力」というものは高かったかもしれないが、学習可能な形にカリキュラム化されていなかった「開成学園で上位の成績をとる能力」というものに欠けていたのだ。それはつまりマニュアルのないものを達成する能力の一種にほかならない。

この少年の悲劇を「単一の価値観」による支配と挫折という方向で語るのは、どこかうまくいかないように思える。「学習可能なものとして可視化されたものを学習できるという能力」と「マニュアルのないものを達成する能力」とは別だからだ。ただ、先にも示唆したとおり、「開成学園でよい成績をとる」ためのカリキュラムは存在していなくても、「東大入試に合格する」カリキュラムを独自に進めていけば、結果的にその能力はある程度は転移する。東大後期の入試問題や各大学の小論文入試などのようなものも、いっけん「マニュアルのないものを達成する能力」が要されるようにも思えるが、ある程度はそのようにして「他の枠での入試問題」の対策で通用する部分もあり、転移する部分もある。そのため、その違い方はあまり目立たない。ただやはりその「学習可能なものができる能力」と「マニュアルのないものができる能力」とは別物としておいたほうが、本当は良い。その意味でいけば、この少年の悲劇は「単一の価値観や能力観」の支配による悲劇ではなく、「複数の価値観や能力観」の相違が認識されていなかったことの悲劇とみたほうが良いように思う。「開成学園で好成績をとる」というのはどちらかといえば「マニュアルのないものを達成する能力」のほうに近く、「東大入試に合格する」ことに比して、より「道なき道を開拓する」という要素が強かった、そう見たい。だから東大の前期入試で成績の良かった者が、後期試験でさっぱりだったり、通常の入試で大学に入学した者が大学の講義がさっぱり理解できないことに近い、そういう現象だったのだ。ここで、「試験勉強に強いという性質一般」とか「知的処理能力一般」といった概念を想定してもそれは現実とは異なる想定になるだけのように思う。

なお「何であれ学習するという能力」一般を想定可能なようにここまで書いてきたが、実際には「そのためには3歳から学習を始めるべし」とか「思春期に入って身体ができてからでないと意味が無い」などと臨界期やその他のさまざまな制限があるので、実際には「何であれ学習するという能力」の敷居はそれだけ考えても決して低いものではない。また「特に向いてなければ」習得可能といっても、実際には「どんな分野にも特に向いてないことなんて無い」という者もあまりいないだろう。行動主義の心理学者がどんな子供でも○○に育てることができる、と豪語するほどには、この「何であれ学習するという能力」一般は有効なものではない。


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