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2018-02-06 引用集01

はじめに

この記事は今後移転する可能性が高いことをお断りしておく。また、通知することなく、内容を増加・変更することがある。さらにまた「強調」に関してであるが、原文での様式を忠実に再現することを全く保証しない。たとえば太字・傍点・下線等の様式が忠実に再現されることは保証しない。

木村朗・高橋博子『核の戦後史:Q&Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』

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p209-211。

一口にがんと言っても、いろいろな種類のがんがありますが、問題になるのは、死に至るほど重篤ながんです。そこで一般には、発がんのリスクではなく、生涯にわたってがんで死亡するリスク(生涯がん死亡リスク)を考えます。このリスクが上がるのは、一〇〇ミリシーベルト以上の被ばくからというのが日本政府の公式見解でもあります。

文科省が二〇一一年十月に刊行した、小中高の生徒向け冊子『放射線等に関する副読本』には次のように記されています。

一度に多量の放射線を受けると人体にがんなどの症状が現れることは分かっているが、子どもも含め一度に100ミリシーベルト以下の放射線を受けた場合に放射線が原因と考えられるがん死亡が増えるという明確な証拠はない。

このように、一〇〇ミリシーベルトの被ばくが、生涯がん死亡リスクを考える際の基準になっているわけです。それでは、この一〇〇ミリシーベルトという数字はいったいどこから出てきたのでしょうか。

結論を述べますと、その起源は、アメリカ原子力委員会、原爆傷害調査委員会(ABCC)とその後継機関である放射線影響研究所(放影研)による、広島、長崎の調査にあります。

p228-229。

ここまで、現在の国際的な放射線防護基準の基礎となる、広島、長崎の被爆者の健康調査(LSS)と、線量推定システムという二つの指標の問題について見てきました。

二つの指標それぞれで、被ばくの影響が過小評価されています。こういう何重にも積み重ねられた過小評価のうえに、放影研や日本政府による「一〇〇ミリシーベルト以下では生涯がん死亡リスクは不明(危険とは言えない)」という説が作り上げられているわけです。

新しい線量推定システムDS02では、爆心から二キロメートルでおよそ一〇〇ミリシーベルト、二・五キロメートルでおよそ五ミリシーベルトの被ばく線量とされます。したがって、「百ミリシーベルト以下では生涯がん死亡リスクは不明(危険とは言えない)」というのは、「広島、長崎の原爆を二キロ離れたあたりで受ける線量なら生涯がん死亡リスクは不明」と言っていることに等しいわけです。しかし、ここまで見てきたように、ABCCも放影研も、リスクを評価するにあたって、初期放射線しか考慮していません。福島第一原発事故のように、残留放射能と本質的に同じである放射線降下物の影響が問題になる場合には、放影研のデータは役に立たないのです。

健康調査(LSS)の問題点の説明はたとえば、p111-112。

ABCCは、統合研究計画に一丸となって取り組む組織に生まれ変わりました。こうしてはじまったのが、LSSと呼ばれる、「寿命調査(Life Span Study)です。LSSでは、広島、長崎に住む人(被爆者、非被爆者)から調査対象が固定されました。固定されるとは、「いったんこの人を調べると決めたら、その人が死ぬまで調査が続けられる」という意味です。

放影研の説明を見てみましょう。

寿命調査(LSS)は、疫学(集団および症例対照)調査に基づいて生涯にわたる健康影響を調査する研究プログラムで、原爆放射線が死因やがん発生に与える長期的影響の調査を主な目的としています。1950年の国勢調査で広島・長崎に住んでいたことが確認された人の中から選ばれた約94,000人の被爆者と、約27,000人の非被爆者から成る約12万人の対象者を、その時点から追跡調査しています(放影研ホームページ「用語集 寿命調査」より)。

十二万人が対象ですから、非常に大規模な調査であることはまちがいありません。このLSSが、現在、国際的な放射線防護基準を決める根拠となっているのです(もう一つの根拠が後で述べる線量推定システム)。(後略)

p223-225。

しかし、LSSが深刻な問題を含んでいることは、科学技術史家の中川保雄や物理学者の澤田昭二をはじめ、多くの被ばく問題研究者によって指摘されてきました。ここでは典型的な問題を二つあげます。

一点目は、原爆投下時から一九五〇年十月一日までに、放射線被ばくによって亡くなった被爆者がまるごと無視されていること。

中川保雄は、これに関する問題点を次のように指摘しています。

[LSSの]調査期間を一九五〇年一〇月一日以降としたことから、つぎのような問題が生まれた。第一にアメリカ軍合同調査委員会とABCCは放射線による急性死は原爆投下後ほぼ四〇日ほどで終息したと評価したが、それ以後もおよそ三ヵ月間引き継いだ急性死がそこでは切り捨てられている。(略)第二に急性死と急性障害の時期を生き抜いたとしても、放射線 被爆 ( ママ ) による骨髄の損傷が完全に回復することはない。骨髄中の幹細胞の減少によるリンパ球、白血球の減少は避けられない。(略)また、骨髄中の幹細胞に残された障害による突然変異に起因して、晩発的影響である白血病、再生不良性貧血や血液・造血系の疾患が発生する。このように、感染症等にかかって死亡する被爆者が一九五〇年以前には多数存在したと考えられるが、ABCCの調査にはそれらの死亡は全く考慮に入れられていないのである(『放射線被曝の歴史』)。

放射線被ばくの影響を強く受けた人、あるいは被ばく線量そのものは小さくても放射線に強い感受性を持つ人が、早期に重い症状を呈し、死亡に至った可能性は、当然考えなければならないはずです。それなのに、一九五〇年十月一日以前に亡くなっていたため、放射線被ばくに影響を考えるうえでもっとも重要な人たちが調査から除外されました。なんと皮肉なことでしょうか。生き残った人の間で比較しても顕著な差は出にくいのです。

二点目は、被爆者同士を比較していること。疫学調査で大事なのは、正しいコントロール(対照)を設定することです。放射線被ばくの影響を明らかにしたいのであれば、被ばくした人と、全く被ばくしていない人からなるコントロール群とを比較しなければなりません。ところが、ABCCとその後身の放影研は、被爆者同士を比較するという過ちを犯し続けているのです。

(中略)

「異なった距離の被爆者の比較」とは、近距離被爆者と遠距離被爆者を比較したということです。近距離被爆者とは、爆心地から二・五キロメートル以内で被ばくした人、遠距離被爆者とは二・五~一〇キロメートルの範囲で被ばくした人のことです。近距離被爆者と遠距離被爆者を比較すると、結果的に、遠距離被爆者に対する影響は無視されることになります。

ABCC・放影研は二〇一二年までにLSSを第十四報まで公表していますが、近距離被爆者と遠距離被爆者を比較する過ちを犯しつづけています(正確には、一九九〇年頃から、遠距離被爆者も、それまでの近距離被爆者の区分に組み入れていますが、統計処理上、実質的にそれ以前と同じように被爆者同士を比較しつづけています。170ページで触れた澤田昭二が、これについて「放影研の『黒い雨』に関する見解を批判する」で詳しく解説しています。

線量推定システムの問題点の説明はたとえば、p117-118。

先に紹介したABCCの生物統計部長ウッドベリーは、イチバン計画の開始にあたって、残留放射能の影響は考慮しないのかと問い合わせ、研究資料も送りました。しかし、彼の提案はここでも無視されます。この実験に携わった科学者の証言によると、当時のアメリカ原子力委員会委員長が、実験についてマスコミに漏らしたら「殺す」と言っていたそうです。このように極秘裏に行われた、言い換えれば、透明性の低い実験をもとに作られたのがT65Dなのです。

T65Dは長く権威ある線量推定システムとして利用されてきましたが、一九七〇年代に致命的な欠陥が見つかり、一九八六年にDS86という線量推定システムに取って代わられます。さらに二〇〇二年にDS02と呼ばれる改良版が出されて今に至ります。

線量と一口に言っても、T57DからDS02まで扱っているのは基本的には初期放射線の線量のみで、残留放射能による線量は無視されています。その事情について、『放射能影響研究所 要覧』(二〇一四年七月)は、次のように説明しています。

「残留放射線」の推定に必要な情報の入手はほとんど不可能に近いことから、線量評価システムでは初期放射能による個人別・臓器別被曝線量だけを推定している。

測定する手段がない。それが残留放射能が無視される理由の一つです。もうひとつの理由として、放影研が挙げるのは、残留放射能の影響はとるにたらないということです。しかし、問題なのは放影研が、残留放射能についても、初期放射線と同じように、「個人別・臓器別被曝線量だけを推定している」点です。すでに述べた内部被ばくの影響の仕方を思い出してください。初期放射能(ガンマ線や中性子線)のような外部被ばくとは違って、残留放射能による内部被ばくは、体内の細胞レベルに効いてきます。それなのに放影研は、「個人別・臓器別被曝線量だけを推定」するのです。これは、人体レベルや臓器レベルで、線量を均してしまうことを意味します。人体にせよ、臓器にせよ、細胞一個よりはるかに大きいことは言うまでもありません。放影研は、本来、細胞レベルで考えなければならない内部被ばくの影響を、人体レベル、臓器レベルで考えることで、小さく見せているのです。

木村朗・ピーター=カズニック『広島・長崎への原爆投下再考―日米の視点』

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この本は論証が明快でないので読んでいていらつくが、提示されている「仮説」は驚くべきものであり、広く共有されることが望まれる。

p188-190。

(前略)一つはですね、1945年の春の日米両政府の動きです。日本は1945年の2月以来ですね、実はすでに降伏を模索し始めていました。その2月というのは、天皇に降伏を進めた近衛上奏文が出された時期で、それは結果的に却下されたんですが、それが最初の動きです。そして5月。3月に沖縄戦がはじまり、5月8日にドイツが降伏しますけれども、その時期ですね。2月から5月にかけての時期が一つのポイントで、この時期が日本に降伏を求める最初のチャンスであったと思います。アメリカは日本にそういう降伏・終戦を模索する動きがあるということをすでにつかんでいたんですね。でも、その情報を知ったアメリカは、それを歓迎するのではなく、むしろ困ったというか喜ばしくないように受け止めたのではないかと思います。これはマンハッタン計画の主導者であるグローブス将軍の動きによくあらわれています。彼は、このままでは原爆開発が成功しない前に、日本に原爆を投下する前に、日本が降伏してしまうかもしれないということで非常に焦って、マンハッタン計画のスピードアップを命じました。またトルーマン大統領の動きですが、ポツダム会談を早ければ5月か6月にも開催するという可能性もあったんですが、それをわざわざ原爆実験が予定されていた7月半ば以降に延期したんです。それは戦争終結を意図的に延期した、ということと同じだと思います。もう一つは、アラモゴードの原爆実験の結果ですが。それは不幸にも成功したわけです。(中略)

当時アメリカは、ウラン型原爆はもう完成し持っていましたけれども、プルトニウム型原爆については実験次第でありました。だからこの原爆実験に失敗した時は、たとえウラン型原爆一発を持っていたとしても、それは虎の子の一発であって、戦後の冷戦、ソ連との対決を考えたら、その一発だけを落とすという選択肢はなかったのではないかと思います。

それともう一つ重要な視点は、グローブス将軍が一番明確にそのことを言っているんですが、日本への原爆投下は常にウラン型とプルトニウム型をセットで二発落とすということが必須の命題として考えられていたということです。

グローブス将軍はアラモゴードで原爆実験が成功した後に部下からこれで日本との戦争が終りますね、と言われたときに、「いや、まだだ。原爆を二発投下するまでは終らない」と語ったと伝えられています(アラモゴードでの実験はプルトニウム型の原爆)。

(中略)

それで広島への原爆投下後、それによって日本が降伏、ポツダム宣言受諾に動くかどうか、十分、時間的余裕を与えないまま、さらに二発目の原爆投下を、しかもソ連参戦があった直後に、長崎に対して行いました。それで長崎に何故落としたかと言えば、もし長崎に原爆を落とさないで、ソ連参戦直後に日本が降伏した場合には、ソ連参戦によって日本が降伏したということにもなりかねない。それで、もしそのようなことになったら大変ですので、それを避ける為にも直ちにソ連参戦直後に落とす必要があったということではないか、と思います。

本来ならば広島に原爆を落とした三日後の8月9日未明にソ連参戦があった(対日宣戦布告は8月8日)わけですから、それで日本降伏を待つのが当たり前なのですが、それをせずに長崎に続いて原爆を落とした理由は、ソ連参戦の影響を最小限にしたいということの他に言えば、やはり広島に落としたウラン型原爆の他に、まだ一個残されていたプルトニウム型原爆の実戦での使用をおこなう必要があったということだと思います。つまり、プルトニウム型原爆は実験では成功しましたけれども、実戦で成功するかどうかはやってみないと分からないという部分があって、やはり実戦での使用の可否、その影響を知るという、新型兵器の実験をどうしてもする必要があったのだと思います。

p27-28。引用内引用は「被爆者救護法―もうひとつの法理」『毎日新聞』1994.09.06付

こうした仮説を最も早くから主張していた人物の一人が故芝田進午氏である。彼の次の言葉は実に説得力に富んでいる。

広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。一つには戦後世界での米国の覇権確立であり、二つには「原爆の効果」を知るための無数の人間への「人体実験」だった。だからこそ、占領直後に米軍が行ったことは、第一に、原爆の惨状についての報道を禁止し「人体実験」についての情報を独占することだった。第二に、史上前例のない恐ろしい火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者のケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。第三に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに「実験動物」を治療するのでは「実験」にならない。そこで、米軍は全力を尽くして被爆者の治療を妨害したのである。第四に、「実験動物」のように「観察」するABCC(「原爆傷害調査委員会」と訳された米軍施設)を広島・長崎に設置することだった。加害者が被害者を「調査」するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。

矢部宏冶『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(20141019,集英社インターナショナル)

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筆者(わたし)はこの本の議論の焦点はこの本が「集英社」という「アメリカに都合の良い歴史を日本人に刷り込むこと」に長年貢献してきたような出版社の出版物であることだろう、と思っていたし、今でも思っている。だが「事態は全然それ以前」であり、この本を「良い」という人は「言論を発信したり活動をする」人ではまったくなく、それに対して「言論を発信したり活動をする」人というのはこの本・著者に対してまったく無反応・無視である、という状況がこの一年で急速にわかってきた。なので、まずこの本の一部の叙述は「かなり広く共有」され「言及」されないと話にならない。「岩波vs集英社」などという「論壇の見取り図」のような話題など、高度過ぎて多くの人には全くの無縁だったのである、が、論壇でもそういう話題をする人は皆無である。

p95。

その後調べると日米原子力協定という日米間の協定があって、これが日米地位協定とそっくりな法的構造をもっていることがわかりました。つまり「廃炉」とか「脱原発」とか「卒原発」とか、日本の政治家がいくら言ったって、米軍基地の問題と同じで、日本側だけではなにも決められないようになっているのです。条文をくわしく分析した専門家に言わせると、アメリカ側の了承なしに日本側だけで決めていいのは電気料金だけだそうです。

p96。

一方、日米原子力協定では、多くの条文に関し、「日米両政府は○○しなければならない(the parties shall…)と書かれています。「しなければならない(shall)」はもちろん法律用語で義務を意味します。次の条文の太字部分を見てください。(中略)つまり「アメリカの了承がないと、日本の意向だけでは絶対にやめられない」ような取り決めになっているのです。(後略)

p97-98。

事実、野田内閣は二〇一二年九月、「二〇三〇年代に原発再稼働ゼロ」をめざすエネルギー戦略をまとめ、閣議決定しようとしました。このとき日本のマスコミでは、「どうして即時ゼロではないのか」とか、「当初は二〇三〇年までに稼働ゼロと言っていたのに、二〇三〇年とは九年も伸びているじゃないか。姑息なごまかしだ」などという批判が巻き起こりましたが、やはりあまり意味のない議論でした。外務省の藤崎一郎駐米大使が、アメリカのエネルギー省のポネマン副長官と九月五日に、国家安全保障会議のフロマン補佐官と翌六月に面会し、政府の方針を説明したところ、「強い懸念」を表明され、その結果、閣議決定を見送らざるをえなくなってしまったのです(同月一九日)。

これは鳩山内閣における辺野古への米軍基地「移設」問題とまったく同じ構造です。このとき、もし野田首相が、鳩山首相が辺野古の問題でがんばったように、「いや、政治生命をかけて二〇三〇年代の稼働ゼロを閣議決定します」と主張したら、すぐに「アメリカの意向をバックにした日本の官僚たち」によって、政権の座から引きずりおろされたことでしょう。

いくら日本の国民や、国民の選んだ首相が「原発を止める」という決断をしても、外務官僚とアメリカ政府高官が話をして、「無理です」という結論が出れば撤回せざるをえない。たった二日間(二〇一二年九月五日、六日)の「儀式」によって、アッというまに首相の決断がくつがえされてしまう。日米原子力協定という「日本国憲法の上位法」にもとづき、日本政府の行動を許可する権限をもっているのは、アメリカ政府と外務省だからです。

p35。

こうした弾薬庫に、もっとも多い時期には沖縄全体で一三〇〇発の核兵器が貯蔵されていました。これはアメリカの公文書による数字です。

緊急事には、すぐにこうした弾薬庫から核爆弾が地下通路を通って飛行場に運ばれ、飛行機に積みこまれるようになっていた。そしてショックなのは、それが本土の米軍基地に運ばれ、そこからソ連や中国を爆撃できるようになっていたということです。

(中略)

中国やソ連の核がほとんどアメリカに届かない時代から、アメリカは中国やソ連のわき腹のような場所、つまり南北に長く延びる日本列島全体から、一三〇〇発の核兵器をずっと突きつけていた。

(中略)

「えーっ、沖縄に一三〇〇発の核兵器があったの?」「しかもそれが本土の基地に運ばれて、そこから飛び立って中国やソ連を核攻撃できるようになっていただって?」とても驚きました。この年になるまで、まったく知らなかったからです。「じゃあ、憲法九条ってなに?」と当然、疑問をもつわけです。

そこで歴史を調べていくと、憲法九条二項の戦力放棄と、沖縄の軍事基地化は、最初から完全にセットとして生まれたものだということがわかりました。つまり憲法九条を書いたマッカーサーは、沖縄を軍事要塞化して、嘉手納基地に強力な空軍を置いておけば、そしてそこに核兵器を配備しておけば、日本全土に軍事力はなくてもいいと考えたわけです。(一九四八年三月三日/ジョージ・ケナン国務省政策企画室長との会談ほか)

だから日本の平和憲法、とくに九条二項の「戦力放棄」は、世界じゅうが軍備をやめて平和になりましょうというような話ではまったくない。沖縄の軍事要塞化、核武装化と完全にセット。いわゆる護憲論者の言っている美しい話とは、かなりちがったものだということがわかりました。

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